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第213号2010年1月1日号

2010年02月14日

東京の会新年挨拶
20年節目の年 原点に戻って活動を見直そう!

 東京の会の皆さん、東京の会通信読者の皆さん、全国のボランティアの皆さん、あけましておめでとうございます。
 昨年を少し振り返りますと、政権が民主党を中心とした連立政権になったことが一番大きなことでしょうか。この際に、新しい内閣に対し、歴代の内閣が行ってきた低医療費政策を根本から改めるよう要望するものです。
 昨年は全国各地で、骨髄バンクを介した移植が10,000例、さい帯血バンクを介した移植が5,000例に達した記念行事が、全国協議会を中心に各地で行われた年でありました。
 今年は、東京の会が創立20周年を迎え、骨髄バンクも創立20周年を迎えます。私はこの機会に、現・財団の体質を見直すべきであると思っています。財団内の問題とはいえ、職員を解雇することをはばからない幹部職員の非民主的な体質を変えて、民主的な体質へと変化を遂げて、本当に骨髄バンクを必要としている方々のために、ボランティア団体と力を合わせて真摯な努力を重ねていく必要があると思います。また、ボランティア団体との関係も改善が必要ではないでしょうか。
 全国のボランティアの皆さん。東京の会は、創立20周年にあたり、原点に立ち返り、今年も全力で活動してゆくとともに、一昨年より、元財団常務理事の堀之内氏よりの訴えを受けて、法廷でも全力で闘っています。昨年暮には証人尋問も終了し、今年の早いうちにも判決が予想されます。ボランティア団体の活動を守っていくためにどうしても勝たなければなりません。なにより、骨髄バンク(活動)の根幹は患者救済であり、ドナーの安全が守られなければなりません。我々ボランティアは、患者さんが望む治療法を受けることができる社会であるよう、日々活動を行ってまいります。引き続きご支援をお願いし、新年のご挨拶とさせていただきます。
2010年 元旦

公的骨髄バンクを支援する東京の会
代表 三瓶和義

【特別寄稿】白血病患者今昔物語 〜ハッピーウエディング2話〜
大谷 貴子

 新年あけましておめでとうございます。
 2010年の幕開けです。今年も箱根駅伝で一年が始まります。どれほど多くの闘病中の患者さんが、「骨髄バンク」の幟旗をテレビで見て勇気付けられることでしょう。
 私の22年前のお正月は無菌室の中でした。1月11日に行われる移植の準備が年末から始まっていました。通常の前処置は、一週間前と言われていますが、私の状態がそれではおっつかないと思われていたのか、年末から延々と抗がん剤が投与されていました。通常の抗がん剤治療と前処置との境目がわからないくらい、それはそれは厳しい毎日でした…。
 それでも、「ああ、年が明ける」「良い年になりますように」「絶対、来年のお正月は家で過ごす!」と、前向きな明るい気持ちで1988年の幕開けをベッドの上で正座をして、カウントダウンをしていたことを思い出します。
 と、そのときです! ドヤドヤドヤッと家族や友人が、酔っ払った勢いで「A HAPPY NEW YEAR !」と無菌室になだれこんできて、でも、看護師さんに見つかると怖いので、風のように去って行ったのです。暗い気持ちの中に笑い声がこだまする…きっと、今、闘病中の患者さんも暗い気持ちの中でも、テレビの中の箱根駅伝での応援メッセージは一筋の明るい光となることでしょう。
 さて、そんな時期もあった私ですが、今やすっかり元気になり、「白血病患者の今昔物語」な.んて番組があれば、きっと「あの頃は…」「あの人は今…」と表現されること間違いなしです。再発の恐怖はもちろんありますが、骨髄バンク運動のおかげで、その恐怖に押しつぶされることなく生きてきた22年でした。と、同時に、再発の恐怖どころか、私たちは生きられるのだろうかという恐怖と闘っている患者さんとのお付きあいも多い22年でしたが…今日は、新年の幕開けにふさわしい明るい話を2つご紹介します。
 一つは2009年11月22日(いい夫婦の日)にウエディングをされたダゼくん(本誌「患者からのメッセージ」参照)夫婦との出逢いです。ダゼくんは、骨髄バンクから移植を受けてまだ1年半ほどです。移植から1年ちょっとで社会復帰ができるだけでも望外の喜びですが、その上、ウエディング! ?
 治療経過が22年前に比べて格段に良くなったことも、彼の元気さにつながっていると思います。そして、それ以上、彼の「生きたい!」という強い意志なくしてはあり得なかったことだと思います。お二人へのお祝いを兼ねて、後日、5時間近くに渡って、彼を支え続けてくれた新妻とともに飲み続けました。本当に嬉しくて、嬉しくて、楽しいお酒でした。その場に、ダゼくんを助けてくださったドナーさんがいてくだされば、もっともっと盛り上がったと思います。ドナーさんに感謝、感謝のひとときでした。
 そして、もう一つの嬉しい出来事。これも、ウエディングにまつわるお話しです。10年前の1999年11月13日、一組のウエディングが挙行されました。ひな壇には、4人が並んでいます。山崎くん夫婦と私たち夫婦。ありがたいことに仲人役をさせていただきました。仲人の妻の仕事は新婦の介添えをすることです。新婦が感動の涙を流すと、すかさず、着物のたもとから、さっと真っ白なハンカチを出し、新婦にそっと差し出す…ハズでしたが、なんと、新婦より先に泣いたのは私でした!
 山崎くん夫婦は、お二人とも元白血病患者さんでした。そして、お二人とも骨髄バンクから骨髄移植を受けて、社会復帰したのです。そんな二人は、先に元気になった新郎が、闘病中の新婦を励ます形で交際が始まります。
 お二人から、「結婚をすることになり、仲人をしてほしい」と頼まれたとき、新郎との出逢いを思い起こすとまるで夢を見ている感じでした。
 新郎の山崎くんとの出逢いは発病されたばかりの頃にさかのぼります。発病を嘆き悲しむ両親の間にちょこんとうつむいて座っていた山崎くん。それはまるで小さな子供のようでした。肩が落ち、存在感がまるでない、消え入ってしまいそうな…そんな感じでした。まだ、骨髄バンクができたばかりで、彼に「移植のチャンスはありますよ」とは口が裂けても絶対言えないドナー登録数の時期です。その場の重苦しい雰囲気に、逃げ出したくなったことを覚えています。
 そんな彼が、生きるチャンスをドナーさんからいただき、健康を取り戻し、同じ闘病体験を持つ伴侶とめぐりあい、新しい家庭を築く…こんなに感動的なシーンのひな壇に立っていたら、最初から涙が止まらないのも無理はない…とは言い訳で、仲人の妻としては大失敗の巻でした。
 ウエディングの場に、それぞれを救ってくださったドナーさんがいらっしゃらないのは残念だけど、この想いをドナーさんに伝えたい、とお二人は、メディアにウエディングを公開してくださいました。その場にいらっしゃった記者さんから、昨年11月のある日、「大谷さん、あの感動の日から10年ですね」と連絡をいただき、あの日の感動は多くの方々に伝わっている!と実感しました。結婚10周年おめでとう。お二人のドナーさん、本当に本当にありがとうございます。確実に彼らは生きています!(4人のひな壇の写真をご参照ください)
 これからも白血病患者の今昔物語はどんどん受け継がれていきます。ドナーさんへの感謝とともに、それぞれを支えてくださったすべての方への感謝とともに…。

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向かって右側が筆者

心のこもったご寄付ありがとうございました。(2009.11.16〜12.15)

小山田ヤエ子さん 5,000円/荻原香織さん 3,000円/石坂直美さん 5,000円/白水 豊さん 4,000円 池田剛・裕子さん 5,000円/匿名 20,000円/匿名 48,000円/河村朝子さん 5,000円 西郷京子さん 10,000円/峯岸ヒロ子さん 1,000円/小松美穂さん 7,000円/圓福鈴美さん 1,300円 関口隆・貴子さん 10,000円/高橋秀彰さん 2,000円/中村恵美子さん 2,000円 船奥保・幸代さん 3,000円/山本美千江さん 10,000円/湯原孝行さん 3,000円
お寄せいただいたご寄付のうち、会費未納の会員からは会費(年3,000円)を差し引いて掲載させていただきました。

東京の会裁判 山場の証人尋問

 東京の会裁判もいよいよ大詰めを迎え、昨年12月7日10時30分から東京地方裁判所第721号法廷において証拠調べ(当事者、証人尋問)が行われました。午前中は原告本人、午後は東京の会会報当該記事の執筆者、遠藤允氏と野村正満氏が証言台に立ちました。
 証人尋問は、証人の「嘘は言わない」との宣誓から始まります。原告側証人に対しては原告代理人(弁護士)が先に尋問し、次いで被告側代理人〔弁護士〕の反対尋問が行われます。被告側証人への尋問はその逆の順序になります。
 真実のみを述べる宣誓はされるのですが、実際には、答えにくいことには「記憶にありません」とか「個人のプライバシーにかかわるのでお答えできません」のような回答が多用されます。そのような答えに対して、いろいろな方向から質問を繰り返して真実を引き出していくのが質問する弁護士さんの「腕の見せ所」のようです。
 最後に、裁判官が質問して証人尋問は終わります。以下の各証人の証言の要点は、速記録でなく、いくつかの質問に対する証言をまとめたものです。
 次回の弁論日程は未定です。

○原告証言の要点
 (訴訟を起こした経緯)
 東京の会会報記事により個人的攻撃を受け、名誉を損なわれ、精神的苦痛と恐怖心を感じている。ウェブサイトに記事が掲載されていることは苦痛である。ボランティア団体を訴える考えはなかった。ボランティアは善意だからである。しかし、扇動団体とボランティアの一部幹部はボランティアといえない。ボランティアと称する一部幹部が財団(骨髄バンク)に出入りし、職員が迷惑していた。自分は見張られていた。

 (新聞記事と国会質問)
 自分は公務員としてなんら処分を受けたことはなく、新聞記事は事実でない。編集者雑記筆者から何の問い合わせも受けたことはなかった。衆議院予算委員会の質疑が載せられた議事録の発行は6 ヶ月後だが、議事録ウェブサイトは毎日見ていた。

 (職務怠慢との指摘について)
 遠藤氏の投稿記事については個人的(感情)なものを感じた。怠慢を指摘されているが思い当たることはない。患者負担金軽減について関係先への働きかけを適切に行ったし、職員に対して挨拶、対話も必要に応じて行っていた。新宿の街頭登録会には職員の連絡に従い定刻どおり出向いており遅れていない。たすきはきちんと身につけ、恥ずかしいからとの理由で外したりしていない。健康問題について触れられ、誠に驚いた。病欠したために業務に停滞や遅れが生じたことは全くない。

 (セクハラ・パワハラ行為について)
 山崎裁判判決で外部調査報告書がハラスメントと疑われても仕方がない事実があったと指摘されているが、そのような事実はない。山崎報告書は山崎元職員の自己保身のために作成されたものである。K庁時代のハラスメントに関することは捏造されたものである。財団はハラスメント対策を行うよう労働局の指導を受けているが、具体策を講じることに関しては関与していない。


○遠藤允氏の証言の要点
 (ユニオン結成の経緯)
 労働組合の立ち上げは、財団職員の待遇が公務員に準ずるとされているのに低かったため、改善を求めることが目的だった。職員の退職が多発していた。

 (前常務理事時代の患者負担低減と登録者の増加について)
 負担金の軽減、保険適用の拡大による患者負担軽減活動は原告着任前の2005年の方が活発だった。2006年から7年にかけて登録者が増えたのは、それまでの財団職員の努力、支援ボランティアの努力の成果であり、原告の功績とは思わない。

 (投稿記事を書いた動機)
 訴えを受けた投稿記事を書いたのは、財団の運営に改善の必要を感じていたからである。投稿をすすめられたわけではない。記事が誹謗中傷に当るとは考えていない。

 (自分の雇い止めについて)
 2006年6月に雇い止めを受けたが、常勤的臨時職員は定年までは更新されるのが前例となっていた。更新契約の際に更新打ち切りの文言に気づくのが遅れた。理事長に更新をお願いしたが取り合ってもらえなかった。


○野村正満氏の証言要点
 (骨髄バンク発足に果たしたボランティアの役割)
 1991年12月に発足した骨髄バンクは人手が不足し、業務習熟も不足しており、ボランティアが多数参加して補っていた。しかし、ボランティアがバンクを支配するようなことはなかった。

 (財団常務理事の出自)
 常務理事職位は歴代厚生労働省出身者が就いてきた。しかし、いわゆるノン・キャリといわれる方だった。前常務理事が就任されるに当り、給与増額が必要となったが厚生労働省との関係が円滑化されるとの期待が高まった。就任後しばらくして、前常務理事は骨髄バンクには不相応しくないと感じるようになった。職員の半数が短時日のうちに退職し、骨髄バンクの職場が安定性がなくなり、職務への習熟が懸念されるようになったからである。

 (阿部議員の国会質問と新聞記事について)
 財団についての質問は、インターネットによる議事録公開で知った。K庁時代の問題は、毎日新聞の知人を通して確認することができた。しかし、議員の質問が匿名だったので、編集者雑記の記事も匿名とした。

 (前常務理事の財団退職について)
 前常務理事の退職について、山崎裁判における、財団事務局長が証人尋問で、辞めさせられることになったなと感じたとの感想を証言されたのを聞いて、当時の財団内部での雰囲気が理解できた。

 (編集者雑記筆者の氏名を公表しなかった理由)
 編集者雑記については氏名を公表しないで来たが、それによって節度のない記事を書かれたということはない。会報記事に対しては会として責任を持つというのが公表しなかった理由である。 (新田恭平)

サンクト・フローリアンの三人をお呼びして
NPO法人骨髄バンクサポート新潟 小林昌美

 11月11日、当法人の1周年記念事業として、サンクト・フローリアンの三人をお呼びし、チャリティーコンサートを開催させて頂きました。東京の会の若木さんよりお話を受け、理事会にかけGOサインが出てから、事務局としては、市役所や各企業・団体へ後援のお願いにあがり、会場選びや日程、コンビニやスーパー等へポスター掲示のお願い、チケット販売等、当日を迎えるまで気を抜く事が出来ませんでした。平日の夕方という悪条件の中、理事を初め、会員さん達は本当に頑張ってチケットを売ってくれました。
 ハプニングもありました。開催前日に、司会をしてくれる予定だった事務局長が、息子さんのインフルエンザのため参加出来ない事になり、急きょ私がやる事になりました。
 当日は、朝から雨降りでますます不安がよぎりましたが、サンクト・フローリアンの方達にお会いし、真剣にリハーサルをしている姿を拝見している内に、「来て頂いた方達にゆっくりと聞いてもらえる時間になればいいんだ」と、何だか落ち着いてきました。開演の時刻になり、演奏前に、残念ながら亡くなってしまった患者さんに対し黙祷をしました。心地よい演奏に会場全体が引き込まれていき、最後の曲が終わり、花束をお渡しした後のアンコール曲がまた素晴らしく、涙ぐんでいる方もいました。感動感激の2時間でした。
 打ち上げの時に三戸さんから、黙祷は会場がピンと引き締まった様で良かったと言って貰えました。後日知っている方に感想を聞くと、本格的な演奏が聴けたことを大変喜ばれていました。
 発足して1年、沢山の方に助けてもらいながら頑張ってきました。これからも骨髄バンクの普及啓発に励み、1人でも多くの方の命が救われる事を願っています。

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~voice~ こころをつなぐ
ヒーロー(後編) 井上くるみ

 今回の「Voice.心の声」は、12月号に引き続き、井上くるみさんの文章を掲載致します。愛する人の発病から10年の時を経て見えたもの、感じたもの、悟ったことを書いて下さったものです。(編集部)

●2006年6月 〈移植、そして退院〉
 本人には人生初の入院生活。「くるみさんは僕が入院してたほうが安心なんだよね?だからここは我慢するよ」。入院したのは私の為だと言わんばかりの態度でしたが、インターンの先生を捕まえてDSで英語のテストを出したり、移植前の結構辛い検査中でもスタッフにユーモアを振りまき、看護師さんにニックネームを命名して食事の栄養バランスのアドバイスをしたりと、無菌室にはいつも明るい笑いが絶えませんでした。
 私も毎日仕事終わりに病院に行き、二人でその日の彼の血液データをレビューし、回診にいらした先生にコアな質問をして治療内容や薬の作用を勉強しました。
 彼は予想どおり、クールに黙々と前処置のプロシージャーをこなし、放射線室から毎日元気に(相当無理していたと思いますが)胸を張って歩いて帰ってきました。キロサイド集中投与の後半は40度近い高熱が続いていたのに「よっしゃー!今夜もいっちょやったるか!」と言っては闘病記録用に使っているカメラに向かって弱弱しいピースサインを送っていました。
 最悪のひとつは、高熱を出しながらもキロサイドが粘膜に滲出するのをうがいで洗う作業と目薬を一晩に何十回も行う事でした。熱と睡魔で意識は朦朧とし、始終上を向くので首の後ろに炎症が起きます。見ている私には大変きつい姿で、外来待合室へ抜け出して泣いてはいたけれど、彼の前では何だか泣けませんでした。それは、弱音を吐かず、辛さを語らず、いつも笑顔で家族や周りのすべての人々に心を尽くし、感謝を送っている彼が誇りだったからです。
 普通の人が経験できない白血病(癌)という恐怖、一番傍にいる私も届かない境地にいるのに、4か月だった移植入院生活のあいだ「ありがと、さんきゅうなっ!」毎日の感謝の言葉と一緒に「大丈夫か?お嬢さん。また泣いたりしてたんじゃないの.?」どっちが入院しているのか分からない様な立場の逆転でした。そして、数か月間もの間、万全を期して、骨髄提供に挑んでくれた妹さんの骨髄は、7月半ばに彼の身体の中で息づき始め、免疫抑制剤の副作用やGVHD、心膜炎などヘビーなフルコースを消化?して、無事に9月初旬の退院となりました。
 「約束どおり、秋までに退院してくれてありがとね。第二の人生をおめでとう!」今日まで忘れてしまっていましたが、退院の日の夜に私が送ったメールにはそう書かれておりました。

●2006年11月 〈再発と闘う〉
 10月の下旬には、実家のご両親のサポートを受けながらの懸命なリハビリのおかげもあり、アメリカから一時帰国した友人と、新宿のホテルで待ち合わせてお茶が出来るようになっていました。入院中に撮影した数百枚の写真を編集して自ら作ったコメント入りのアルバムを使って、移植のend to endを説きながら人間の細胞が如何に神秘的に機能していくかを熱く語っていました。
 最後に友人は、癌患者でありながら奇跡の生還を果たした後にツール・ド・フランスで7連覇を遂げたランス・アームストロングの話を引用しつつ、今が正念場なのだから粘り強く勇気を持って生き抜いて欲しいと言ってくれました。「そうだね。どうやら本気で闘病しなくちゃって思い始めたよ」いつものようにクールにそう答えてましたが、アームストロングの健闘に関してはコメントを示しませんでした。
 退院後初めて友人と会うという機会に、気持ちは高揚していたけれど、顔色は悪くて駐車場まで歩く時の足の運びがぎこちなかったのを覚えています。その日あたりから、身体が痛くて夜は眠ることができなくなり、彼の病状は少しずつ影をおびて行きました。
 11月7日、本人から「朝から熱を出してしまった、8.7。久々につらっ!冷えピタ中。」というメールが来ました。私は父上に電話で「クリティカルかも知れないのですぐ先生に連絡して病院へ行ってください」とお願いをしました。同日の午後何時ごろだったか、父上から電話が入りました。「やはり再発しておりました…このまま入院するので着替えを持って来てやってください。」
 私はすぐに仕事を抜けて甲州街道を新宿方面へと車を走らせました。こんな時は気持ちが少しでも晴れるよう、新しいパジャマを買ってあげなきゃ、そう思ってハンドルを握っていたのに、嗚咽が後からあとからこみ上げて来て体中が震えました。涙で前が見えなくなり、笹塚で脇道に車を停めて子供の時の様に大声で泣きました。泣いているうちに日も暮れてしまい、何も持たずに病院に向かう事にしました。
 病室に入ると、彼はベットに横たわったまま私を見て微笑みました。手を握ると身体を起こして、再発の診断時に受けた先生からの話を細かく説明してくれました。「ごめんな、約束果たせなくて」何の事かというと、必ず根治してずっと一緒にいるという約束であったことを思い出し、根治を目指すよりも今後は癌と向き合って共存する人生を選べば良い事、来年には新薬が登場するかも知れない事、だから白血病へのより深い知識を持って二人で一緒に勇気を持って生きよう、と伝えました。彼は泣いていました。そして私の頭を撫でて「あなたは強い人だ」と言いました。でもそれは本当は逆で、私が強くなれたのは彼が側にいてくれたからだと思います。

●2006年11月8日 〈急変〉
 翌朝7時ごろ、父上から「病院から急変の知らせが来まして、すぐに向かうのでお願いします」と連絡を受けました。先生からの説明はとても厳しい現実でした。手の尽くし様がないとは、ああいうことを言うのでしょうか。移植後間もない彼の身体では再発し浸潤してゆく白血病細胞を食い止める事が出来ず、肺水腫という診断でした。呼吸が出来なくなる苦しみそのものを取り除く事は出来ないが、薬で意識を低下させるので本人はうつらうつらしているような状態になるとの事。
 私はその説明の意味を明確に理解できてはいたものの、足が地に着かない状態でずっとずっと悪い夢の中にいるようでした。これから起きようとしている現実を実感できなくて、というよりも、全ての感情を失ってしまったかのように涙も出ませんでした。(周りの人はそんな私を「気丈な人だ」と感じたでしょうか)
 彼に会いに行くと、酸素マスクをしたまま嬉しそうに笑いました。「あれ?こんなに早くから来てくれたの?」私はとっさに、仕事が一段落したので今週は休みを取ってずっと側にいると伝えました。「嬉しいなぁ、じゃぁ早速サンドイッチでも?」たぶん食べ物はもう喉を通らないのに、普段通りに振舞おうとしていました。酸素出力は最大で、それでも上体を起こしていないと息が辛そうでしたが、「数日我慢したら楽になっていくからね」と見舞いに来てくださった方々に話していました。
 最後の日の朝、確か先生は「今から薬を使いますね、今夜が峠です」というような表現をされたような気がします。そのまま彼の傍らに行って手を握ると、彼が私に言いました「くるみさんは僕の鏡だから」。その時ははっきり意味が分からなかったけれど、こう思う事にしました。人の心に働く「鏡」というものの作用は計り知れない程あると思います。相手と同じものを見る、相手を互いに愛する、相手に自分の裏側を映す、この彼からのメッセージが私には具体的な言葉を沢山もらうよりも宝物になりました。そして夕刻6時ごろ、力を振り絞ったように私に言いました。「悪いけど今日はくるみさんの相手をしてあげらんない。ちょっときついわ。これ乗り切れば月曜に回復してるから。こんなの前も何度もあったしね。だから今日はもう電気消して帰って?」
 ずーっと彼は、このクールな態度を崩そうとしませんでした。最後まで勇敢で、何が何でも生き抜こうとした姿はあまりにも「あっぱれ」で、周囲の人々を驚かせました。「そうなの?じゃあ今日は帰るね、お休みね?」私はそう言って病室を出、家族が待機するロビーに向かいました。意識がある彼と交わした最期の会話になってしまったけれど、彼はそうしておきたかったのだと思います。

●2009年11月
 あの日から三回目のこの季節がやってきました。秋空の少しひんやりとした、すがすがしく澄んだ空気の中で空を見上げて深呼吸をすると、40歳を目前にして逝ってしまった彼が今も隣りで笑っているような気がします。急成長するIT業界の最先端にいる外資系企業で半生を生き、アジアの諸地域と共同で開発した最新のテクノロジーを通じて、人々の生活をさらに良い未来へ導けると信じた仕事に、最後の瞬間まで復帰する意欲を失くしませんでした。文字どおり命を賭けて果敢に病気と戦った彼の最期は、私の永遠の「ヒーロー」です。 (おわり)

患者からのメッセージ
夢を持ち、未来を思い浮かべ突き進めれば… 荒井 善正

 はじめまして、荒井Daze善正と言います。私はスノーボードブランド数社からスポンサードされるスノーボードライダーです。病気を発症したのは2006年頃。徐々に体調が崩れているのに気がついていましたが、スノーボードは順調でスポンサーもつき、雑誌やDVDでも取上げられ始めた頃だったので、騙し騙し滑り続けていました。そんなある日突然気を失ってしまったのです。
 救急車で運ばれた病院では原因がわからず、幾つも病院を渡り歩き、4番目の病院で病名が「慢性活動性EBウィルス感染症」だとわかりました。症例が少ない難病で、確立された治療法も無く当時通っていた病院ではなす術がありませんでした。
 しかし、どうしてもスノーボーダーとして復帰したい気持ちが強く、病気を何としても克服したいと思い続けました。そして、この病気を研究している先生をインターネットで見つけることが出来ました。その先生は骨髄移植をすれば治る可能性があると言ってくれました。治るなら是非受けたいと相談すると、まずはドナーが必要だと言われ、兄に検査を受けてもらう事になりました。これでもう私は兄の骨髄を移植して助かるものだと思いました。ところが兄とHLAは一致せず、その時は本当にショックでした。「このまま骨髄移植にチャレンジする事も出来ずに死ぬ」「スノーボードも中途半端だ」「結婚を約束した恋人はどうしたらいい?」それが現実になろうとしていたのです。
 そんな時に、先生の紹介で初めて骨髄バンクに出逢いました。骨髄バンクなら30万人のドナー登録者の中から自分のHLAと一致したドナーが見つかるかも知れない。骨髄バンクのお陰でチャレンジ出来る可能性が生まれたのです。まだドナーが見つかっていた訳ではないけれど、バンクの存在はとても心強かったです。それから約半年、大量の抗癌剤の治療などをしながら待ち、フルマッチではないけれど提供してくれるドナーさんが現れました。本当に嬉しかったです。
 でもこれはやっとスタート地点に立てただけ。それからが本当の闘いでした。前処置として行なう大量抗癌剤治療や放射線の全身照射は本当に辛く、骨髄移植をした後一ヶ月半も本当に苦しいものでした。でもその苦しい闘病生活を支えてくれたのは、スノーボードライダーとして現役復帰する目標と、たくさんの仲間、一番近くで支えてくれた恋人でした。さらに、健康な身体に全身麻酔をかけて骨髄を提供してくれるドナーさんの気持ちを考えれば死ぬわけにはいかない、そう思うと、とても前向きになれて、辛い闘病生活を乗り越えることが出来ました。そして、移植後半年で雪山に立ち、スノーボーダーとして紙面にも復帰することが出来ました。
 今は闘病中に思い描いていた夢を全て実現していっている感じです。骨髄移植をして一年半が経ち、身体はスッカリ快調で、闘病をまとめた手記「NOSNOWBOARDING NO LIFE.スノーボードがくれた命.」も出版させてもらえました。そして11月22日には、闘病を支えてくれた恋人と結婚し、晴れて夫婦になることが出来ました。今は本当に生きている幸せを感じています。これも全て、ドナーさんが生きるチャンスをくれたおかげです。本当に感謝です。この感謝の気持ちをドナーさんに直接伝えたい気持ちは山々ですが、それは規則で出来ません。そこで私は、骨髄移植推進財団の説明員になって次に伝えていくことにしました。今ではこの生きる喜びを、骨髄移植推進財団での「かたりべ事業」で講師として、全国の学校に行きお話させていただいています。
 この活動を通じて、骨髄バンク設立に尽力し、自身も骨髄移植体験者の大谷貴子さんにお逢いする事も出来ました。家族とHLAが一致せず、このままでは死を待つのみだった私に、生きるチャンスを与えてくれた骨髄バンクを創ってくれた一人。その大谷さんに、初めてお逢いした時に思わず口から出た言葉は、「二十年前に骨髄バンクを創ってくれたおかげで命を救われました。ありがとうございました。」本当に感謝の気持ちでいっぱいでした。今では一緒に講演を行ったりもしています。
 写真はこの間、私と嫁と大谷さんで、築地のお寿司屋さんで食事した日のモノです。こんな事ってほんの一年半前には夢の様な話だったけれど、今それが実現しています。夢を持ち、未来を思い浮かべ突き進めばそれはいつか実現する。今ではそう確信しました。本当に生きるチャンスをありがとうございました!

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右から著者、大谷さん、奥様

◆編集者雑記◆

▼2009年12月7日、本紙で報告のとおり、東京の会裁判において原告堀之内敬氏と被告遠藤允さん、野村正満さんに対する証人尋問がおこなわれました。裁判官3人の前に据えられた証言台に証人として座り、原告・被告の弁護士がそれぞれに尋問をおこないます。堀之内敬氏の弁護士が最初に行った質問「今回の裁判を提訴した理由は」に対し「組織人(自分のこと)に対し、個人的怨念で誹謗中傷の記事を会報に掲載している。その会報がウェブサイトへアップされインターネットという一般閲覧可能なメディアに掲載された。これは個人的攻撃で著しく名誉を損害しているので早急に削除してほしい。」
▼「ボランティア団体を提訴するのは挑発と受け取られないか。」の質問へは、「編集者雑記の筆者と遠藤允氏を訴えるつもりだったが、筆者を教えられないと言われたためしかたなく団体を提訴した。ボランティアをおこなう団体を敵視するつもりはない。」と答えました。
▼しかし訴状では明確に、「公的骨髄バンクを支援する東京の会 代表 三瓶和義」宛てに名誉棄損で1,000万円の損害賠償請求を求めているのです。発端はまさにボランティア団体への挑発です。
▼その後の本人の証言では、「会報に掲載のあった新聞記事はすべてでたらめで、環境庁出向時代に上司からの叱責やけん責等の処分は一切受けていない。当時この新聞記事に反論をしようとしたが、公務員という立場で裁判など起こすなと上司より強く言われたので反論することは断念した。記事になったこと自体、組織的な不正を暴こうとした自分の行動に対する報復だと感じている。」と語っています。また、「財団の常務理事時代には、患者負担金の引き下げを強く働きかけるなど財団の業務には大変貢献したと自負している。職員に対しセクハラ・パワハラをおこなった事実はなく、外部調査報告でもそのような事実はなかったと報告された」とも言っています。
▼しかし当時「外部調査においても、そのような事実は全くなかった」と公式発表した財団に対し、外部調査を担当した弁護士は、事実と異なるとして調査費用を財団に返したと言われています。
▼また、山崎裕一氏が解雇に対する労働契約上の地位確保を求めた裁判では、山崎氏の主張が裁判官に認められ、いわゆる山崎報告書は根幹的、基本的部分では真実を指摘し、個人に対する誹謗中傷文書ではない、との判決が出ていることはすでに報告のとおりです。堀之内氏は今回の証人尋問で裁判官の前で、自分の行動はすべて正しく適正な業務をおこなったと主張し、山崎報告書は本人の保身のための虚偽の羅列であり事実ではない、と証言しているのです。判決に対してまったく反対の主張を繰り広げているのです。本人は今後もこの主張を続けるのでしょうか。
▼その後、東京の会の担当弁護士宮田先生が、財団退職後の去就について尋ねたところ、私立大学の講師として教鞭を振るったこと、学校での授業等は生徒からの評判も大変良かったこと、この学校への就職活動はすべて自分自身で取り組み、いわゆる天下り・斡旋や紹介などでは断じてないこと、財団退職の前年12月頃より就職先を探し始めていたこと、2009年9月にすでに私立大学は退職しているが本提訴とは全く関係がないこと、などと証言しました。
▼遠藤さんの証人尋問の時に、原告の弁護士は、証人台に座る遠藤さんに対し、その座席の目の前に出て、腕を組んで顔を突き出し、威嚇するような態度で尋問を繰り返しました。証言台からは相当の威圧感を感じたのではないでしょうか。ただでさえ初めての証言台に立つ被告に対して高圧的な態度だったと思うのは、筆者だけでしょうか。理不尽にも一方的に起こされた裁判の証言台に立つという思ってもいない苦痛な体験をされた遠藤さん、野村さん、本当にご苦労様でした。この理不尽な訴えに対し、今後も東京の会は立ち向かってまいります。 (A)

♪「1月定例会」/2月会報発送「おりおり」 のお知らせ♪

東京の会「1月定例会」のお知らせ

1月16日(土)午後5時30分より
会場:全労済東京・レインボー会館3階会議室
※新宿駅下車7分(新宿区西新宿7-20-8)
※西新宿駅下車1番出口徒歩2分
青梅街道新宿警察署きらやか銀行の角入ってすぐ右側
※2月定例会予定・2月20日(土)午後5時30分より
定例会は 毎月第3土曜日午後5時30分 から開催しています。


2月会報発送「おりおり」のお知らせ

2月6日(土)13時00分より
※13時以降に入室するよう、お越し下さい。
場所:品川運輸・4階会議室(品川区東大井2-1-8)
JR大井町駅徒歩8分・京浜急行鮫洲駅徒歩2分
※今お読みになっている「東京の会通信」を約1000部
折って封入して発送します。簡単な誰にでも出来る作
業です。いつも人手が足りません。どうかご協力を。
※3月「おりおり」予定・3月6日(土)13時00分より

新しい方大歓迎です。お気軽においで下さい。お待ちしています。

平成21年11月末日現在 登録・適合状況

◆◆◆日本骨髄バンクの登録患者と検査済登録ドナー◆◆◆

ドナー(全国) 登録者累計 352,047人/11月登録分 3,110 人/11月抹消分 811人/実質登録増 2,287人
ドナー(東京) 登録者累計  50,993人/11月登録分 320人/11月抹消分  94人/実質登録増 175人
患者(全国)  登録者累計 29,002人/11月登録分 226人


◆◆◆患者とドナー登録・適合状況◆◆◆

ドナー登録受付者数(累計) 449,049人
ドナー登録抹消者数(累計) 97,002人
有効二次検査済ドナー数 351,729人( 11月2,340人増)
二次検査適合ドナー数(累計) 210,500人
実質登録患者実数(現在) 2,527人( 国内1,369人)
HLA適合患者数(累計) 23,603人( 患者累計数の81.4%)
非血縁移植実施数 11,178例( 11月実施126例)

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「東京の会通信」の「第213号2010年1月1日号」のページです。発行月別に掲載しています。

先月号は第212号2009年12月1日号です。

次月号は第214号2010年2月1日号です。

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