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第216号2010年4月1日号

2010年04月19日

語り合い、思いを新たに
20周年を語るつどい開催

 3月22日、昨日の強風もおさまり穏やかな春の陽より。新宿駅から会場までの道沿いにある桜も、つぼみをふくらませ始めていました。
 各々が20年間の骨髄バンクボランティアの思いを胸に、創成期より活動を続けている方たち、それぞれの時期から参加したドナーや患者さん、患者家族、ボランティア、そして、何年かぶりに顔を見せてくれた人たち等々、総勢45名が新宿の高層ビルを見上げる会場に集まりました。司会者のあいさつの後、完治に向け治療していたにも関わらず無念にも亡くなっていった方たちに全員で黙とうを捧げて「20周年を語るつどい」がスタートしました。
 東京の会代表の三瓶和義さんのあいさつ、福島県より駆け付けてくださった陽田秀夫さんの乾杯と続き、懐かしい人たちとの思い出話で盛り上がっている時に、サンクト・フローリアンの三戸さんと小澤さんが楽器を手に、「このような会には、音楽が必要なのよ。」と前にでてこられ素晴らしい演奏を披露して下さいました。そして参加者全員で、ヴァイオリンとチェロの伴奏にのせて、「翼をください」と「からたちの花」を歌いました。
 その余韻の中、「東京の会のあゆみ」と題して野村正満さんが片手にマイク、片手にワイングラスを持って、これまでの軌跡を説明された後、日本に骨髄バンクができる以前から患者救済の思いでこれまで活動を続けてこられた、大谷貴子さん、池田あゆみさん、新田恭平さん、三瓶和義さんが、千葉純子さんの司会の下、今までの心に残る活動やエピソードを語って下さいました。
 その内容に涙する参加者も多く、熱いものがこみ上げる時間の中、大谷貴子さんより宮崎県から春休みを利用して訪ねてくれた、元患者である豊永由希恵さんが紹介されました。彼女は10数年前に移植を受けて、今春大学に入学するチャーミングな女性です。そして、「大学では、植物などの自然なものを活かして人間の免疫力を高める研究をしたい。それを、社会に還元したい。」と元気に話してくれました。
 ちなみに、今回参加した東京の会の最年少メンバーよつば君3才が食事の時から彼女のそばを離れず、あろうことか自分は4才だとサバを読み、帰る時にも手をつないで宮崎県まで行くところでした。初恋です。今後もこの恋の行方を静かに見守りたいと思います。
 そうして、楽しい時間はあっという間に過ぎていきます。
 その後、事務局長の今後の活動報告に続き、提供していただいた品物でチャリティーオークションが行われました。1点3千円からスタートした品物も、会場の熱気に後押しされ、千円単位で値がつりあがり、2点で2万3千円の落札額でした。今後の活動に有意義に使わせていただきます。
 会の最後に会場から手があがり、骨髄バンク設立前の悲しい秘話が涙ながらに語られました。活動の原点を見た貴重な時間でした。その思いを胸に、ボランティアが一致団結して20周年事業を成功させ、「患者救命とドナーの安全」を理念とし活動を行っていくと、三本締めで結びました。
 参加された皆さま、どうもありがとうございました。この場をお借りし、ごあいさつ申し上げます。(事務局長・大橋一三)


■当日の感想
みなさんに会えてよかった!!!(若木換、武林裕美)
いろいろな人に会えて楽しかったです(西村政志、陽田秀夫)
やっぱり20周年!多彩な顔ぶれ!いらっしゃれない方の事もしみじみ〜(小澤洋介、三戸素子)
無理して来てよかったです。久しぶりに泣きました(西野里実)
東京の会に参加したきっかけは悲しい事があった頃ですが、皆さんに会えて人生が変わりました‼(仲本順子)
東京の会に参加した事で、ウチの子四葉が生まれました。
東京の会は人の命を救う事もでき創る機会までもできる素晴らしい団体だと改めて思いました(仲本剛郎)
自分の記憶力との闘いでした(笑)皆様との出逢いに感動しました(大谷貴子)
東京の会に関われて感謝です。泣けました‼(湯原孝行)
とてもよかった。東京の会は不滅だ。(三瓶和義)

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豊永由希恵さん、大谷貴子さん、池田あゆみさん

心のこもったご寄付ありがとうございました。(2010.2.16〜2010.3.15)

皆川京子さん 2,000円/手塚春枝さん 7,000円/油原猛さん 7,000円/中村恒明さん 7,000円
匿名 2,000円/八戸信昭さん 1,000円/匿名 17,000円/小磯澄江さん 2,000円/中森立子さん 4,000円
お寄せいただいたご寄付のうち、会費未納の会員からは会費(年3,000円)を差し引いて掲載させていただきました。

■20周年記念カンパとして
手塚春枝さん 10,000円/前垣伊都子さん 20,000円/募金箱 5,500円
オークション用品・バザー用品に現物カンパが多数寄せられ 売上金 62,400円をご寄付いただきました。

帝京大患者会・しらたまを訪ねて

 3月13日に東京の会から大橋事務局長、桜井さん、大塚の三人で、帝京大学医学部付属病院に行ってきました。
 新しく建て直されたばかりの立派な病院で、ここには血液患者の会・名称「しらたま」があります。この会は血液内科医の田代晴子先生をはじめ、元気になった患者さんや薬剤師の方々が世話人として、活発な活動をされています。そのひとつが「おしゃべり会」で、患者、元患者、家族、そして医療スタッフが2ヶ月に1回土曜日の午後、2時間の予定で、お菓子をつまみながらおしゃべりをします。会の歌まで作られることになり、作詞作曲は世話人のひとり、星ひさしさんで5月には完成、発表されるそうです。
 この日も30人近い人々が集い、班に分かれてそれぞれの思いを語り合いました。東京の会三人は、患者会の様子を見学させていただきました。星さんは2年前に骨髄バンクを介してドナーさんから移植を受けて、今ではスキーができると喜んでおられました。
 この日の参加者は、半数くらいが医療スタッフの方で、お忙しい中みなさんの熱意がよくわかりました。
 おしゃべり会のあと、昨年11月に全国協議会が植樹した、桜の苗木を見に行きました。世話人の椚原由記子さんがメジャー持参で、測ってみたら145cmでした。まだ細くてこれが桜かと思いますが、立派な芽がふくらんで、もうすぐ若葉になる予感がします。春の一日、心まで暖かくなる会に参加させていただき、このような活動が患者さんの大きな支えになると思いました。
 東京の会では20周年の記念事業として、6月26日の総会後に患者交流会を実施します。この「しらたま」のご参加をお願いしてきました。 (大塚)

■患者会に参加して思うこと
 次男が治療を受けているときに、杏林に患者の会が有ったらどんなに良かっただろうと思います。
 当人も他の患者さんの話を聞いたり、完治した人と話すことが出来たらどんなに勇気づけられたことと思います。
 私たち家族も色々な不安を解消できたと思います。
 患者と家族の会の大切さを感じました。 (櫻井 正和)

しらたま世話人奮闘記(ブログ)に帝京大学の患者会・しらたまの活動内容等が載っています。
是非、ご覧ください。
http://kanjakai.seesaa.net/

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桜の成長を見守るしらたまの方たち

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東京ドナー登録会予定(4月)

4月1日(木)赤羽駅東口(北区)
4月7日(水)衆議院中庭(千代田区)
4月9日(金)日本橋たもと(中央区)
4月24日(土)銀座協会( 中央区)

翼君、ほんとうにありがとう!

 高遠翼君は、意志の強い、勉強家で好奇心旺盛な、かっこ良い好青年です。
 6年前に初めて出合った翼君は、シャイで人見知りな小学6年生でした。山梨県で初めてのサンクトフローリアンピアノ三重奏団コンサートで、お母さんの都さん司会進行の中、翼君はサンクトメンバーへの花束贈呈という大役を果たしました。
 その後4年間、この秋のイベントには、山梨県骨髄バンクを推進する会会長の高遠勲お父さんと一緒に必ず家族揃って参加してくれました。花束贈呈、公演後の打ち上げでの楽しい交流に笑顔一杯で話題をふりまいてくれました。中学生になっても、ご両親の愛情たっぷりに笑顔を絶やさぬ翼君でしたが、少しずつ病状は悪化していたのでした。
 2008年秋、山梨県で東京の会合宿を開催したときに、高遠勲さんも地元ということで参加してくれました。
 合宿の中で高遠さんからの質問で、「限りある命の区切りが目の前にある患者に対しどう接したらよいか、それが自分の子供だったら」、と質問し、講師の松崎先生は「病気と闘う気持ちがあれば、奇跡はおこる!」と強くおっしゃいました。
 あまりにも悲しいけれど、10万羽の折鶴を見たときに「間違いなく奇跡はおこった!」と感じました。翼君のご冥福を祈ります。合掌。 (若木換)

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前列向かって右が翼君。ご両親と、隣は妹の愛さん。

■10万羽の鶴に乗って
山梨県骨髄バンクを推進する会 高遠 勲

 去る2月に17歳になったばかりの長男・翼を脳腫瘍で失くしました。
 告別式の際、祭壇に虹の中を羽ばたく鶴を型どった10万羽の折鶴が飾られました。この鶴は私たち家族がお世話になっている方の呼びかけで、インターネットのブログを通じて息子の快癒を願って、知人、友人、全国の名前も知らない大勢の方までが折ってくださったものを、式場スタッフがデザインを考えて飾り付けてくださったものです。千羽鶴ではなく「1万羽鶴」を折って祈ろうという声かけに、たったの5日間で、その10倍の10万羽が集まりました。残念ながら糸でつなぐ作業は間に合わないまま、息子は逝ってしまいましたが、そのおかげでこの鶴に乗って美しい虹を渡って空に還って行きました。この祭壇飾りの美しさと、息子の生きざまが重なって、会葬のお客様も遺族・親族も悲しみの中にも希望や感動すら覚え、慰められたことでしょう。
 息子は、1998年、5歳時に骨肉腫を発症し、化学療法、右足切断の後、2000年に妹より骨髄液をもらい、骨髄移植を受けました。当時、固形がん患者への骨髄移植は症例が少なく、珍しい治療方法でしたが、主治医や医療チームの熱心な治療により無事、寛解を迎えます。障害は残りましたが、周囲の理解と協力で小・中学校とも普通学級で過ごします。
 小学校6年生になると「医師になりたい」「副作用の少ない抗がん剤の研究をしたい」という将来への夢を持ち、勉強に励みます。しかし2006年、中学校2年生の時、今度は脳腫瘍にかかってしまいます。骨髄移植から6年、これは骨肉腫の転移・再発ではなく、新たな腫瘍でした。効果があると予測されるあらゆる治療を試みますが、昨年秋までに5回の再発をしてしまいます。腫瘍の発症した部位により、この2年は左手足の麻痺が徐々に現れ、移動も車椅子に頼り、忘れやすい、憶えられないなど日常生活に支障をきたす症状を呈するようになってきました。
 それでも将来の夢への意志は強く、入院中も許可をもらい高校へ通学しながら治療を受ける毎日でした。また、バイオリン仲間との交流もかけがえのないものでした。
 17年という短い生涯の間に2度も悪性腫瘍に冒され闘病を続けてきましたが、息子はいつも一所懸命に生き、夢や目標に向かってコツコツと努力する子どもでした。
 よく「健康第一だよ」と言われますが、たとえ病気でも希望を失わずひたむきに生きたわが子を宝物のように想い、よくがんばったねと、褒めてあげたいです。ありがとうございました。

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10万羽の鶴

■翼君を偲んで
サンクト・フローリアン三重奏団 三戸素子

 東京の会の若木換さんが山梨県に転勤となり、なんとサンクト・フローリアンのコンサートを山梨でも計画して下さることになりました。赴任されて間もないというのに、若木さんは和やかにもうずっと山梨におられたかのように、県庁の方や地元の方々と私たちトリオの三人を迎えてくださいました。そこでお会いしたのが高遠さんご一家です。
 ステージで患者さんたちの窮状を訴えるお父様、真摯に司会をつとめるお母様、そして演奏後に花束を持って現れたお子さん方の中におられたのが、少し足を引きずった小柄な少年の翼君、少しはにかんで、でもしっかりした女の子が妹の愛ちゃんでした。
 翼君は華奢で、笑顔がすてきな男の子でした。聡明そうな彼は、学校で習っているんだからと、フィリップ相手に英語をチャレンジ。「あれ、思ったことをそのまま英語でいうのは難しいなぁ。」と屈託がありません。かたわらの愛ちゃんは、学校帰りのカバンから取り出したノートにかっこいいイラストを夢中で描いています。毎年会うと、すっかりおなじみになりました。
 お父様がすぐに冗談を言うのも、そうしなければつらすぎるから。お母様が慎重なのは、重たい決断を何度もしなくてはならなかったから。愛ちゃんは皆がお兄ちゃんにばかりいきがちなので寂しいけれど、頑張って自分の骨髄を提供までしたお兄ちゃんには生きていてほしいと思っている。
 そして翼君は、安堵する間もなく襲ってくる病気と、全ての不安と前向きに闘っている。高遠さん達は、日本中に何家族あるかはしれないけれど、できる限り永く家族四人揃っていられるように、全力をあげて運命に立ち向かっているご一家でした。
 高校に入学した時の翼君の誇らしげな顔、それはずっと病院生活で満足に学校に行けなかった彼の達成感を物語っていました。また最後に会った時、いよいよ厳しくなってきた自分の生命に対する不安からか「ハグして。」と何度も抱きついてきました。
 印象的な思い出がたくさんあります。毎回別れるとき、来年も無事に会えますようにと祈りました。
 先日若木さんから、翼君の訃報をお知らせいただき本当に悲しかったです。四人で一つだったご一家は、三人になられてしまいました。天国に行ってしまった翼君を、私たちがいつまでも思い出し、身近な存在に留めておくことが、ご家族のお悲しみに対する一助になればと思っている毎日です。
 ついに聴かせてもらう機会はありませんでしたが、翼君はヴァイオリンを習っておられました。私たちの音楽は天国にとどくかもしれません。演奏するたびに思いを込める私たちの今は亡き大事な人たち。その中に翼君はそっと加えられました。

患者からのメッセージ
白血病が結んだ出会い 佐々木 彩

「今から入院できますか?」という医師の言葉に、診察室を出た途端にただ涙が溢れたことを今でもよく覚えています。
 それは社会人1年目の冬、23歳の時でした。検査の結果『急性リンパ性白血病』であることがわかりました。
 当時は毎日生きていることは当たり前のことで、何気なく過ぎていく日々に特別な感情を抱くこともありませんでした。しかし入院し状況が一変、日々健康に過ごせていたことがどんなに尊いことだったのか思い知ることとなりました。
 治療が始まると同時に唯一の兄弟である弟のHLA検査が行われました。幸いなことにHLAが一致し骨髄移植が現実的な治療法となり、移植をして元気になることが私の最大の使命となりました。そして発病から半年ほどで骨髄移植を受け、新たな人生のスタートラインに立つことが出来ました。家族や友人をはじめ、支えてくれた多くの人のお陰で私は生きているのだと、ただ生きていることに感謝し、普通に日々過ぎていくことがどんなに尊いことなのか実感しました。
 その後退院し順調に回復して会社への復帰も現実的な目標となりました。ただ当時は通勤に大きな不安があり、その話を患者仲間にしたところ、骨髄移植推進財団でボランティア活動をしてみてはどうかと勧めてくれました。復職するまでの短い間でしたが財団に通い作業をして帰ってくる、これは私にとって大きな自信となりました。きっかけは社会復帰への第一歩という個人的な望みからでしたが、このボランティア活動で私はもっと大切な経験をしました。
 私は血縁者間での移植であった為にボランティアを始めた当時は、骨髄バンクについての知識は血縁者でドナーが見つからなかった場合に骨髄バンクからドナーを探す、という程度の知識しかありませんでした。移植をしたくてもドナーが見つからずにずっと待っている患者さんが今この時もいて、そして見ず知らずの人の為に骨髄を提供するドナーさんとその候補者がいること。さらにその活動を支える大勢の人達の存在を目の当たりにしました。こんなにも多くの人のお陰で今の私があるのだと思うと、何としても社会復帰をして恩返しをしたいと強く思いました。
 その後会社に復職し、体調のことを気にせずに日々の生活を送ることができるようになりました。しかし2009年2月に再発していることがわかり、再び治療が始まりました。いくつかの選択肢の中から、今度は弟の末梢血から造血幹細胞を採取して移植をすることとなりました。無事に再移植をして現在は元気に暮らしています。
 この3年ほどの間に闘病仲間や移植に携わる多くの人、そしてその活動を支える大勢の方と知り合いました。私に直接の生きるチャンスを与えてくれたのは弟ですが、移植そのものの症例数が増えたことによって、私の治療の選択肢が増えたのは事実です。
 そう考えると(私の勝手な思いですが)、すべての人のお陰で私の命がつながったのだと、そして無限の人とのつながりと縁に感謝感激してしまいます!前に進む勇気をくれた人、きっかけを与えてくれた人、大切なことを気づかせてくれた人、その人たちの顔を思い浮かべると、白血病を発病しなかったら出会うことのなかった人がたくさんいることに気が付きます。
 病気そのものは周囲の人を巻き込む悲しい出来事ではありますが、病気をしていなかったらこうした大切な人に出会うこともなかったのだと思うと、人生に無駄なことなんてひとつも無いのだと思います。
 つい最近、『生きているだけいい』と守りの生活を考えてしまっていた時に、『生きているのだから今からでも遅くない、その可能性にチャレンジしてみたら』と背中を押してくれたのも病気を通して出会った人でした。
 これからもきっと新たな嬉しい出会いがあるでしょう。白血病が結んだ縁を大切にし、これからの可能性にチャレンジして生きていきたいと思います。
 ありがとうございます。

骨髄提供者からのメッセージ
生きるとは 進孝男 44歳

 私が今までに記憶の残っている範囲で一番うれしかった事は、子供が生まれた事です。私には二人の子供がいますが、どっちの方がうれしかったかはあえて言いませんが、とにかく今も鮮明にその時の喜びとうれしさは覚えています。
 反対に一番悲しかった事は、家族の死です。姉が交通事故により突然35歳で他界した時のことです。私は姉の一つ年下で、まさかこんなにも早く姉が亡くなるとは思ってもいませんでした。と、言うか、自分自身の死どころか家族の死なんて考えたこともありませんでした。私は家族の突然の死に、言われようの無い悲しみを覚えました。このとき私は初めて、死について考えるようになりました。
 姉が亡くなった翌年、母が突然亡くなり、再び深い悲しみに苛まれることとなりました。そして2年後、追い打ちをかけるように父が病に侵され闘病生活を送ることとなり、約1年の闘病生活の後に天国に旅立ってしまいました。父の時は初めて臨終に立ち会うことが出来たし、病室での付き添いなどもできたので、突然亡くなった姉や母の時とは死についての考え方も違いました。
 闘病中の父を見ていると、死についてよりも「生きるとはなんだ」ということを強く意識し考えるようになりました。死について考えると、この世から亡くなることよりも「何のために生きるのか」「生きるとは何か」ということを考え、「どう、生きるべきか」を考えるようになりました。
 骨髄バンクの登録をしたのも、どう生きるかを考えた後のことでした。「どんなことでも良いから、人のためになることがしたい」「生きている間に、誰かの役に立たなければ」こんな思いが自然と湧いてきたからです。合わせて、私が父の闘病中に「どうか奇跡が起きて、病気が治らないか」と思ったように、骨髄提供を待ち望んでいる方々も、同じ思いでいるのだろうと感じ、私の骨髄提供で誰かの命が救えれば家族の皆さんもきっと喜ぶだろうと思い、登録をしました。だから提供者になることが決まった時は、正直、うれしかったです。「やっと、誰かのためになれる」そう思ったからです。
 提供が決まってからは健康に気を配り、禁酒(半年はしました)したり、好きな柔道の練習もお休みしたり、いろいろ制約もありましたが、これも骨髄提供のためならと頑張ることができました。
 実際に採取の時は不安もありましたが、「やっとここまで来られたのだ」との安堵感の方が強かったです。麻酔が覚め採取後の痛みは、針を刺した患部の痛みはさほどでもありませんでしたが、麻酔のために施した尿管カテーテルを抜く時と、抜いた後の痛みがちょっと予想以上でした。
 そして、採取から2年の歳月が流れ、遠い昔の話になりつつあり思い出すことも減りましたが、薄っすらと残った採取跡と、患者さんの家族からのお手紙が私の記憶を蘇らせてくれる唯一のものとなりました。特に患者さんの家族からのお手紙は、まるで私の母からの手紙のように、私を思いやり、慈しむ思いが込められているものでした。
 骨髄バンクの決まりでお互いの身元は明かされないので、患者さんは提供者に手紙以外にお礼をすることはできません。だから、手紙に深い感謝の意が込められ、思いがしびれるほどに心に響くのです。不思議です。私は感謝してほしいとは思っていませんでしたが、文字の一つひとつから感謝の気持ちが伝わってきて感慨深いものでした。当然返信をしましたが、きっと私の気持ちもしっかりと届いたと思っています。損得だけでなんでも計る世の中ではこんなやり取りはあり得ないとつくづく思いました。だから、この手紙は私の特別なものになりました。
 誰かの命を救うため、自分の体の一部を生きながらにして提供することは、日常では想像もつかないことでしょう。しかし経験してみて今思うと、役に立てたとか、良いことをしたとか、そんな気持ちは不思議と湧いてくることはなく、当たり前のことをしたのだとの思いで、ただ4日間病院にいた程度の軽い気持ちでしかありませんでした。バンクの決まりで、提供者になれるのは年齢が54歳までと、生涯2回までとなっていますが、また選ばれる事があれば提供者になるつもりです。理由はありませんが・・・・・
 最後に、私がドナーに選ばれ無事に採取を終えることができたのも、職場の皆さんのご理解と協力があったからです。本当にありがとうございました。それから、ドナーになれるような丈夫で健康な体に育ててくれた、亡き父と母に感謝したいと思います。
 そして、最後まで読んで下さった皆さんへ。
 どうか傍観者にはならないでください。皆さんの少しの勇気と決断が、多くの患者さんに勇気と希望を与えます。必死に生きようとしている患者さんに、どうか手を差し伸べてあげようじゃないですか。出来るのは、あなたです。(福井県在住)

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宮城さい帯血バンクが経営危機に

 3月下旬、宮城さい帯血バンクが経営危機に陥ったと報じられました。この10年、さい帯血移植療法は試験的治療から標準治療となり着実な歩みを続けています。さい帯血バンクは以下の通り重要な役割を果たしており、組織の一層の充実と保存さい帯血個数の拡充が求められている中でのゆゆしきニュースです。

①骨髄移植を必要とする血液難病患者にHLA適合の骨髄が見つからない場合の補完的役割をはたしている。
②さい帯血はHLA一座あるいは二座不一致の場合でも、患者さんの体内で適合し生着する性質を持っている。
③高齢化の進むわが国で高齢者の造血幹細胞移植を必要とする血液難病患者も増えており、通常の移植より前処置を軽くし、体力を温存して行うミニ移植に有効とされ頻度が高まっている。

 いまや非血縁者間のさい帯血移植例は骨髄移植の約50%を占めており、さい帯血バンクの経営破綻が宮城だけでなく、他のさい帯血バンクにも拡がり、保存個数が減ったり供給能力に影響が及べば、血液難病患者にとっては大きな問題です。
 日本さい帯血バンクネットワークを構成するさい帯血バンクは、宮城に限らず、どこも国庫補助金だけでは経費をまかない切れず、病院などの母体組織の支援や寄付金によってなんとか運営が維持されているのが実態です。こうした構造的な問題を解決するためにも、国庫補助金の大幅な増額や、母体組織の支援に頼る財務体質の改善が必要であり、組織・システムの見直しを含めた改革が強く求められます。

春の銀座のドナー登録会、4月24日(土)開催


 東京の会恒例の春の銀座教会でのドナー登録会を4月24日(土)に開催します。
今年は、東京の会20周年事業として都内献血ルームと協力して、1年を通して新宿東口・有楽町・まちだ・アキバ・SIBU2(渋谷)・吉祥寺タキオン・ぶらっと(池袋)の7ヶ所の献血ルームで献血及びドナー登録呼びかけを行います。
今回の、恒例銀座教会でのドナー登録会で勢いをつけ登録者の確保と骨髄移植及び献血への普及啓発に努めます。

1.日時 2009年4月24日(土) 10:00-16:00
2.場所 東京都中央区銀座4-2-1
    日本基督教団 銀座教会 東京福音会センター
    地下1階 会議室
3.主催 (財)骨髄移植推進財団  
    企画協力 公的骨髄バンクを支援する東京の会
4.後援 東京都・中央区・特定非営利活動法人全国骨髄バンク推進連絡協議会

〇当日参加のボランティアの皆様へ
(1)集合時間 9:00
(2)集合場所 日本基督教団銀座教会入口
階段前歩道
(1階の入口が開かれるまで地階に入らないでください)
 多数のご参加をお願いいたします。

6月26日(土)は第21回定期総会

 昨年度の東京の会の活動総括と今年度の活動方針を決める第21回定期総会を、6月26日(土)午後1時から、新宿区西新宿の全労済東京会館で開催いたします。
 今年の東京の会は、20周年記念事業の予定が詰まっており、一人でも多くのボランティアが必要な状況です。会員の皆様のご参加をお待ちしております。また、総会後には昨年行った、新鮮で素晴らしかった患者交流会を、規模を拡大して開催する予定です。この試みは、患者さんをはじめ、そのご家族やドナー、そしてボランティアがさまざまな立場に於て意見を交換し、相互理解を図りボランティア活動や移植医療のサポートに少しでもつながっていけばというものです。
 ご家族やお友達にもお声掛けをお願い致します。

日時:2010年6月26日(土) 13:00-14:00
会場:全労済東京会館3階
 (新宿区西新宿7-20-8)
議題:2009年度活動報告及び会計報告
   2010年度活動方針・宣言・役員改選
※総会終了後、患者交流会&講演会(14:30-17:00)を開催します。

◆編集者雑記◆


▼先日開催された「20周年を語るつどい」で、参加されたHLAの専門家の方から、骨髄バンクができる前のエピソードが語られました。当時は、血縁者間にHLA適合ドナーがいない患者に対し、それぞれ個別に「○○ちゃんを救う会」といった組織ができて、友人・知人関係のネットワークや街頭での呼びかけ等により、HLA検査を受けてもらう活動を行っていました。
▼大切な「彼・彼女」「この子」を救うため、なんとしてもドナーを見つけたいと、必死になって検査の呼びかけや検査費用の募金活動などを行った人たちの思いは、非常に切実でした。しかし、結果としてそのような「個人別」のドナーリクルートでは、HLAがマッチするドナーが見つかる可能性はほとんどゼロであり、実際にこうした「救う会」の活動により骨髄移植が実現した例はありませんでした。
▼お話をされた方は、その当時HLA検査機関で実際にそうした「救う会」の活動で集められた検体のHLA検査にあたっていました。「救う会」からの検査の依頼が一時的に殺到すると、検査する側もフル回転となり大変だったそうです。ある時、複数の「救う会」のHLA検査を行っていて、「Aくんを救う会」の「Aくん」とHLAがマッチした人が、「Bくんを救う会」で検査を受けた人の中にいることがわかったそうです。
▼しかし検査機関として守秘義務があり、「Aくんを救う会」に「Bくんを救う会」のドナー候補者の検査結果を伝えることはできません。その方は非常に悩み、なんとかできないかと上司にも相談したそうですが、結局伝えることができなかった、そのことが、ずっと心の中に重く残っていたというのです。「今日、初めて告白します。これはざんげです」「もし懲戒解雇を覚悟して検査結果を伝えていたら、その人の命が助かったかも知れない。でも自分にはできなかった」と涙ながらに語られました。
▼骨髄バンクはこのような「救う会」の限界を乗り越え、実際に人の命が助かり、人々の善意が本当に生かされるシステムとして、強く望まれていました。東京の会もこうした思いから「公的骨髄バンクを望む東京の会」として設立されました。そして公的骨髄バンク(骨髄移植推進財団)設立後は「公的骨髄バンクを支援する東京の会」に改称し、「患者救命とドナーの安全確保」を基本理念において、たくさんの方々が活動に関わり、今日に至ったのです。
▼今、血液難病の治療環境は、当時とは大きく様変わりしています。骨髄バンクドナー登録者が35万人を超え、年間1100例以上の非血縁者間骨髄移植が実施されています。さらに移植ソースにさい帯血が加わり、さい帯血バンクネットワークを通じた非血縁者間さい帯血移植も今年1月に6000例を超えました。そして骨髄移植推進財団は、非血縁者間の末梢血幹細胞移植(PBSCT)のコーディネートを、今年の10月から開始しようとしています。
▼2月の編集者雑記でも触れていたように、非血縁者間PBSCTのコーディネートシステム構築費は、平成22年度の国庫補助金で認められませんでしたが、財団は来年1月の導入を目途にシステム構築に着手することを決定しました。さらにシステム導入前の評価を兼ねて、10月から手作業で限定的なコーディネートを開始するとのことです。この段階ではコーディネート対象者をHLAフルマッチの骨髄提供経験者に限定するなどの条件を設定することで、財団は対象ドナー年間約25人、PBSC採取件数は年間1.2件と試算しています。1月のシステム導入後は「骨髄提供経験者」の条件を解除し、対象ドナーが年間約345人、採取件数年間約15.20件と見込んでいます。
▼この会報が発行される頃には、財団に設置された「PBSCTに関する委員会」の中間答申も出されます。その内容については、5月号で特集を組む予定ですが、私たち東京の会は、活動の基本理念である「患者救命とドナーの安全確保」をキーワードとして、非血縁者間末梢血幹細胞移植導入に関わる諸課題を検証し、財団をはじめとする関係機関に対し、積極的に提言や要望を行っていきたいと思います。 (S)

♪「4月定例会」/5月会報発送「おりおり」 のお知らせ♪

東京の会「4月定例会」のお知らせ
4月17日(土)午後5時30分より
会場:全労済東京・レインボー会館3階会議室
※新宿駅下車7分(新宿区西新宿7-20-8)
※西新宿駅下車1番出口徒歩2分
青梅街道新宿警察署きらやか銀行の角入ってすぐ右側
※5月定例会予定・5月15日(土)午後5時30分より
定例会は 毎月第3土曜日午後5時30分 から開催しています。

5月会報発送「おりおり」のお知らせ
5月1日(土)13時00分より
※開始時間が変更になりました。13時以降にお越し下さい。
場所:品川運輸・4階会議室(品川区東大井2-1-8)
JR大井町駅徒歩8分・京浜急行鮫洲駅徒歩2分
※今お読みになっている「東京の会通信」を約1000部
折って封入して発送します。簡単な誰にでも出来る作
業です。いつも人手が足りません。どうかご協力を。
※6月「おりおり」予定・6月5日(土)13時00分より

新しい方大歓迎です。お気軽においで下さい。お待ちしています。

平成22年2月末日現在 登録・適合状況

◆◆◆日本骨髄バンクの登録患者と検査済登録ドナー◆◆◆

ドナー(全国) 登録者累計 356,081人/2月登録分 2,297 人/2月抹消分 1,005人/実質登録増 1,292人
ドナー(東京) 登録者累計  51,379人/2月登録分 257人/2月抹消分 129人/実質登録増 128人
患者(全国)  登録者累計 29,628人/2月登録分 173人


◆◆◆患者とドナー登録・適合状況◆◆◆

ドナー登録受付者数(累計) 456,896人
ドナー登録抹消者数(累計) 100,815人
有効二次検査済ドナー数 355,765人( 2月1,305人増)
二次検査適合ドナー数(累計) 216,207人
実質登録患者実数(現在) 2,551人( 国内1,383人)
HLA適合患者数(累計) 24,116人( 患者累計数の81.4%)
非血縁移植実施数 11,459例( 2月実施87例)

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「東京の会通信」の「第216号2010年4月1日号」のページです。発行月別に掲載しています。

先月号は第215号2010年3月1日号です。

次月号は第217号2010年5月1日号です。

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