思いやりの心から生まれる命の「絆」
【第209号 2009年9月1日号】
真夏の日差しが照りつける。病院から一歩外に出た私は心地よい暑さと風を感じていた。その日は骨髄液を提供し退院する日だった。妻の運転で帰路に就く。やめていた煙草に火を点け、ふぅと深呼吸をする。久しぶりの煙草にクラクラしながら。「良かったね」「患者さん元気になるといいね」「そうだね」そんな会話をしている二人はごく自然な笑顔だった。
1999年に地元の青年会議所という団体に入会した私は骨髄バンクと出会う事になる。そこでは地域の為に様々な事を行っていた。そのひとつに骨髄バンクの啓蒙活動があった。「人やモノを大切にする心」「思いやりの心」を発信していこうと、先輩たちが色んな機会で骨髄バンクドナー登録会などを行っていたのだ。自然の流れで私もドナー登録をした。というよりは、当時は先輩から半ば半強制的に登録をさせられ、あとで骨髄バンクについて詳細を知った感じだった。だからかどうか分らないが私の周りにはドナー適合の通知を受け取る者が結構いる。年の近い先輩も骨髄提供者だった。
2002年に初めての適合通知が来た。自分でも人の役に立てるかもしれない。少し高揚した気分だったのを覚えている。残念ながら途中でコーディネート中止になってしまった時は、私よりHLAの型が近い人が無事提供してくれたと願うばかりだった。その後2回も適合通知が来るも途中で中止になってしまう。
そんな中、命の不思議さを感じた出来事があった。私と同時期に骨髄バンクにドナー登録していた妻に適合の知らせが来た。ほぼ同じ時期に妻の妹にも適合通知が来たのだ。「これって、私が病気になった時、妹から骨髄液もらえるかもしれないってことだよね」おそらく姉妹でHLAの型が似ている事なのかもしれない。4人兄弟がいた場合、適合の確率が高くなると聞いていたので、なるほどと感心したものだった。
そして2008年の春にいよいよ4回目の適合通知が私の下に届く。なにか今までとは違う感覚を感じ、今回は提供できるかもしれないという妙な自信があった。移植が決まるまで他言無用にしておこうと決めた。今までは通知が来るたびに皆に言っていたのがダメだったのだろうという勝手なジンクスを決め込んで。
その甲斐あってか最終同意の日を迎えた。先生曰く、「過去4度も適合する人も珍しいですね」との事。その時ふと思ったのは逆を言えば、私も血液疾患になりやすい型なのかなという事。でもその時は、「その分適合する人がいるからいいか」そんな楽天的な考えをしているうちに、やっと最終同意の説明が終わった。今日から禁煙、禁酒する。ひとり心に誓ってもそれを破りそうだったので妻に公言する。必死に生と向き合って頑張っている患者さんに対して、少しでもいい骨髄液を提供したい、せめてもの礼儀だと思った。普段の生活も気を付けるようになった。仕事に行く車の運転中の事故、仕事現場での怪我、ここで自分の不注意でなにかあったら申し訳のしようがない。早く採取の日にならないかと思って過ごしていた。
最終同意から約一か月、採取のため入院となった。ホッとする。ここまでくればあとは大丈夫だと思った。個室の病室に通される。健康極まりない人間が病院の個室に入院するのは申し訳ないような変な気分だった。仲間がお見舞に来てくれるが病気ではないので「お見舞」という言葉よりは「ご機嫌伺い」の方がしっくりくる。二日後、いよいよ採取の日がやってきた。初めての全身麻酔はどんなものだろうとワクワクしていた。怖さはまるでない。それよりもなにか誇らしい自分を感じていたし、私の骨髄液を待っている人に早く届けたいという気持ちだけだった。麻酔を掛けるため、テレビドラマでよく見るあれを口にあてがう。すーっと深呼吸しているうちに朦朧としてくる。「終わりましたよ。起きてください」先生の声で重くなった瞼を開ける。準備が終わったと思ったら、すべて終わっていたらしい。自分の骨髄液を見せてもらって終わった事を実感した。感慨無量だった。
よくいろんな人に「怖くない?」「知らない人のためによくやるね」など言われる事があった。「自分の身内だったら提供するけど、赤の他人のためにはちょっと…」という人もいる。六十数年前、自分の愛する人のため、家族のため、この国のため、自分の命を犠牲にして戦闘機や潜水艦に乗って行った若者たちがいる。命と引き換えに愛する者を守ろうとした先人達の想いから比べたら、涼しい空調の利いた部屋で、三度の食事を頂いて、無傷で生きて帰ってくる。何のためらいがあるだろうか。利己主義と呼ばれる人が多くなったように思われるが、今回の体験を通して、今まで以上に「利他の精神」すなわち「思いやりの心」を発信していこうと感じた。
相も変わらず暑い日が続いている。背中に伝う汗を感じながら帰宅した。妻が少し興奮した様子で、神棚から何やら封筒を持って来た。骨髄移植推進財団からだった。中身はなんと、一年前骨髄液を提供した患者さんからの手紙だった。力強く、一歩一歩頑張っている姿が目に浮かんだ。「良かった…」私も妻も凄い元気を頂いた。この同じ青い空の下のどこかで頑張っている人がいる。私ももっと頑張れる気がした。(埼玉県在住)

























