2009年09月15日

思いやりの心から生まれる命の「絆」
【第209号 2009年9月1日号】

 真夏の日差しが照りつける。病院から一歩外に出た私は心地よい暑さと風を感じていた。その日は骨髄液を提供し退院する日だった。妻の運転で帰路に就く。やめていた煙草に火を点け、ふぅと深呼吸をする。久しぶりの煙草にクラクラしながら。「良かったね」「患者さん元気になるといいね」「そうだね」そんな会話をしている二人はごく自然な笑顔だった。
 1999年に地元の青年会議所という団体に入会した私は骨髄バンクと出会う事になる。そこでは地域の為に様々な事を行っていた。そのひとつに骨髄バンクの啓蒙活動があった。「人やモノを大切にする心」「思いやりの心」を発信していこうと、先輩たちが色んな機会で骨髄バンクドナー登録会などを行っていたのだ。自然の流れで私もドナー登録をした。というよりは、当時は先輩から半ば半強制的に登録をさせられ、あとで骨髄バンクについて詳細を知った感じだった。だからかどうか分らないが私の周りにはドナー適合の通知を受け取る者が結構いる。年の近い先輩も骨髄提供者だった。
 2002年に初めての適合通知が来た。自分でも人の役に立てるかもしれない。少し高揚した気分だったのを覚えている。残念ながら途中でコーディネート中止になってしまった時は、私よりHLAの型が近い人が無事提供してくれたと願うばかりだった。その後2回も適合通知が来るも途中で中止になってしまう。
 そんな中、命の不思議さを感じた出来事があった。私と同時期に骨髄バンクにドナー登録していた妻に適合の知らせが来た。ほぼ同じ時期に妻の妹にも適合通知が来たのだ。「これって、私が病気になった時、妹から骨髄液もらえるかもしれないってことだよね」おそらく姉妹でHLAの型が似ている事なのかもしれない。4人兄弟がいた場合、適合の確率が高くなると聞いていたので、なるほどと感心したものだった。
 そして2008年の春にいよいよ4回目の適合通知が私の下に届く。なにか今までとは違う感覚を感じ、今回は提供できるかもしれないという妙な自信があった。移植が決まるまで他言無用にしておこうと決めた。今までは通知が来るたびに皆に言っていたのがダメだったのだろうという勝手なジンクスを決め込んで。
 その甲斐あってか最終同意の日を迎えた。先生曰く、「過去4度も適合する人も珍しいですね」との事。その時ふと思ったのは逆を言えば、私も血液疾患になりやすい型なのかなという事。でもその時は、「その分適合する人がいるからいいか」そんな楽天的な考えをしているうちに、やっと最終同意の説明が終わった。今日から禁煙、禁酒する。ひとり心に誓ってもそれを破りそうだったので妻に公言する。必死に生と向き合って頑張っている患者さんに対して、少しでもいい骨髄液を提供したい、せめてもの礼儀だと思った。普段の生活も気を付けるようになった。仕事に行く車の運転中の事故、仕事現場での怪我、ここで自分の不注意でなにかあったら申し訳のしようがない。早く採取の日にならないかと思って過ごしていた。
 最終同意から約一か月、採取のため入院となった。ホッとする。ここまでくればあとは大丈夫だと思った。個室の病室に通される。健康極まりない人間が病院の個室に入院するのは申し訳ないような変な気分だった。仲間がお見舞に来てくれるが病気ではないので「お見舞」という言葉よりは「ご機嫌伺い」の方がしっくりくる。二日後、いよいよ採取の日がやってきた。初めての全身麻酔はどんなものだろうとワクワクしていた。怖さはまるでない。それよりもなにか誇らしい自分を感じていたし、私の骨髄液を待っている人に早く届けたいという気持ちだけだった。麻酔を掛けるため、テレビドラマでよく見るあれを口にあてがう。すーっと深呼吸しているうちに朦朧としてくる。「終わりましたよ。起きてください」先生の声で重くなった瞼を開ける。準備が終わったと思ったら、すべて終わっていたらしい。自分の骨髄液を見せてもらって終わった事を実感した。感慨無量だった。
 よくいろんな人に「怖くない?」「知らない人のためによくやるね」など言われる事があった。「自分の身内だったら提供するけど、赤の他人のためにはちょっと…」という人もいる。六十数年前、自分の愛する人のため、家族のため、この国のため、自分の命を犠牲にして戦闘機や潜水艦に乗って行った若者たちがいる。命と引き換えに愛する者を守ろうとした先人達の想いから比べたら、涼しい空調の利いた部屋で、三度の食事を頂いて、無傷で生きて帰ってくる。何のためらいがあるだろうか。利己主義と呼ばれる人が多くなったように思われるが、今回の体験を通して、今まで以上に「利他の精神」すなわち「思いやりの心」を発信していこうと感じた。
 相も変わらず暑い日が続いている。背中に伝う汗を感じながら帰宅した。妻が少し興奮した様子で、神棚から何やら封筒を持って来た。骨髄移植推進財団からだった。中身はなんと、一年前骨髄液を提供した患者さんからの手紙だった。力強く、一歩一歩頑張っている姿が目に浮かんだ。「良かった…」私も妻も凄い元気を頂いた。この同じ青い空の下のどこかで頑張っている人がいる。私ももっと頑張れる気がした。(埼玉県在住)

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患者さんと夫から与えられたもの
【第209号 2009年9月1日号】

 私の夫は4回目のコーディネートでドナーになり骨髄提供をしました。
 4回目の適合通知が届く前に、コーディネーターさんより電話があり、今度こそはドナーになれる確信をしました。確認検査も何事もなく進み、ドナーに選ばれ最終同意まで進みました。最終同意をしてからは、骨髄採取日まで夫に何かあってはならない、「もう、一人の身体ではないのだから」と思い、とにかく無事に採取病院に入院できるよう、ずっと心配していました。夫も、自分になにかあってはならないことは十分に自覚しており、最終同意後からは禁煙、禁酒をし、健康状態には十分に気をつけて骨髄採取の日を迎えました。
 私は骨髄採取のため入院する病院に向かう車中で、夫に「骨髄採取は怖くない?」と聞いてみました。夫は「なんで怖いの?麻酔が効いて寝ている間に終わって、一人の患者さんの命が助かるかもしれないのに!全然怖くも不安もないよ。」そう答え、その言葉で私の不安は吹っ飛びました。骨髄採取で手術室に入るとき夫は、「いってきます!」と敬礼して手術室に入りました。そして採取後、夫は無事に病室に戻ってきました。「採取した骨髄液は、すぐに別の病院で待っている患者さんのところに持っていきました」と主治医の先生に言われ、私もやっと安心することができました。本当に命のリレーですね!その時の感動は決して忘れることはないでしょう。感動を与えてくれた夫に感謝しました。そして移植された夫の骨髄液が、患者さんの身体の中で正常な血液を造りだしてくれることを祈るばかりでした。
 無事に退院の日を迎え、病院から帰る途中、夫がコンビニに立寄りたいと言うので何を買うのかと思ったら、最終同意後からずっと禁煙していたタバコを買って、おいしそうに吸っていました。このままタバコをやめることができたら、夫をもっと見直すことができたのに残念です。
 退院した当日の夫は、少し腰に鈍痛が残るようでしたが、翌日には普段の生活に戻り今も元気に仕事をしています。夫は普段の生活に戻りましたが、ずっと骨髄液を提供した患者さんのことが気がかりでした。きっと患者さんは元気になると、信じてはいましたが、移植後も辛い治療がたくさんあったと思います。提供後に手紙がなかったので心配していました。しばらくして夫宛に、財団からクリーム色の封書が届きました。私は手紙とは思わず何かのお知らせだと思い、夫が読む前に勝手に読んでしまいました。その封書はなんと患者さんからの手紙だったのです!
 手紙には「生きている間、あなたのことを忘れることはないでしょう」と書いてあり、手紙を手にした時は手が震えてしまいました。夫の骨髄液が患者さんの身体の中で生きる力を造りだしていると思うと、とても不思議な気持ちになるし、本当に人間を救えるのは人間なんだと思いました。そしてこの空の下のどこかで、夫の骨髄液で頑張っている患者さんを思うと、私自身もまた新たな気持ちになり頑張ろうと思います。骨髄液を移植した患者さんにはもっともっと元気になって、いろんなことにチャレンジして欲しいと思います。私は、夫が骨髄を提供した患者さんのことを忘れることはないでしょう。そしてこんな経験をさせてくれた夫と骨髄バンクに感謝します。

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2009年08月15日

11年目のありがとう 高橋めぐみ(37歳)             【第208号 2009年8月1日号】

 あの時、骨髄移植をしていなかったら今の私はないかもしれない。そう思うと背筋が凍ります。12年前の春。夢があり、忙しいけれど楽しい毎日、そんな時私は骨髄異形成症候群という病気になりました。私の病気は抗がん剤治療が有効ではなく、骨髄移植を余儀なくされます。白血病は怖い病気、でも骨髄バンクがあって骨髄移植があるから大丈夫。私は勝手にそう思い込み、骨髄バンクがどんな組織なのか、骨髄移植がどんな治療なのか、何も知らず、また知ろうともしませんでした。そして発病から約1年後、骨髄バンクのドナーさんから移植を受ける事になりました。
 移植の直前、急に不安と恐怖が押し寄せてきました。怖くて逃げたくて仕方ない……。
 そんな私を見た母が、ここに電話してみたらと1枚のメモをくれました。同じような病気を克服し元気になられた方の電話番号だと言います。受話器を握り、また戻す。何度も繰り返しやっとの思いで電話をかけると、その方は優しい声で一言「大丈夫よ」と言ってくださいました。涙がポロポロ溢れて止まりませんでした。「大丈夫よ」の一言が私のお守りとなり骨髄移植に臨みました。丸坊主、丸裸の私を大勢の看護師さんに囲まれながらイソジン風呂に入った時は、マネキン人形のようでした。小さな無菌室が広く感じられ、ベッドから降りて2歩のトイレまで歩くのがやっとでした。はじめは吐き気と1日5回の服薬と追いかけっこ。でも飲まないと死んじゃう……。
 薄ピンク色の骨髄液が注入されたのは夜の11時でした。骨髄液はほんのり温かく感じ、私は「ドナーさんどうもありがとう、そして仲良くして下さい」と、お願いしました。
 それから、さまざまなGVHDを乗り越え、私は生まれ変わります。入院中は辛く苦しく、制限ばかりの生活でしたが、約半年ぶりの家での〈普通〉の生活は温かくそして心地のよいものでした。病気にならなければ気付けなかったこと、そして骨髄移植が成功しなければ取り戻せなかったもの。それが〈普通〉の生活でした。
 ほどなくして、移植前に「大丈夫よ」の、言葉のお守りをくれた方が骨髄バンクのボランティアをしていると聞き、私も参加するようになります。私にも何かできるかもしれない。意気揚揚と参加しました。そこで衝撃を受けるのです。私は当たり前に見つかると思っていたドナーさんが見つからず、病気と闘っている人がいること。ドナーさんは骨髄液を採取する為に全身麻酔をし、大変危険を伴うこと。骨髄移植をしても助からない場合もあること。生存率のグラフを見て愕然としました。闘病中にこの事実を知っていたら、怖くて移植に踏み切れなかったかもしれない。と。
 もし自分が元気だったら、骨髄バンクに登録していただろうかと考えることがあります。登録を呼びかけチャンスを配る時、受け取ってもらえないと悲しい気持ちになります。でも自分が元気なままだったらそうしたかもしれない…そのことに気づけたのも病気になり、そして元気になった今があるからです。
 病気になったことは、本当に悲しいことです。私は病気になって生まれ変わり、そして成長することができました。何かで非血縁者間移植をしたと言うと「ラッキーだったね」と、度々言われました。それが嫌でたまらなかった。病気と闘ったのは自分なのに『ラッキーって何?』って。けれど今は本当にラッキーなのだと受け止めています。現実を知り、今を生きることはラッキー以外の何ものでもありません。病気になった頃、10年後なんて想像もつかなかったけど、私は今その11年目を生きています。ドナーさんからの骨髄移植は当時病気を治すための手段だと思っていましたが、今は違います。
 私はあの骨髄移植からずっとドナーさんと一緒に生活していると思っています。ご飯を食べて、笑って、怒って、泣いて。私は一人で生きているんじゃないって実感しています。だって、あの骨髄移植がなければ、今はないかもしれないから。
 私に出来ること、それはドナーさんと一緒に生き続けることです。そして私も「大丈夫よ」のお守りを誰かに届けることが出来たら幸いです。 (埼玉県在住)

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こちらこそ、素敵な経験をさせてもらいました 門間健一(40歳) 【第208号 2009年8月1日号】

 骨髄バンクとの出会いは、16〜17年前になります。当時、東ちづるさん(女優)の担当マネージャーをしておりました。その時、ちづるさんがまだまだ認知度の低い「骨髄バンク事業」を広めるためのボランティア活動をしていまして、「自分でもできることがある」と思い登録したのがきっかけです。『骨髄バンクとは何か?』そのことに関しては、全く知識がなく、全国のボランティア活動にマネージャーとして同行して初めて知ったほどです。当時、ちづるさんの周りをうろうろしていた自分を知っている方も多いとお聞きしております。
 登録をしてすぐ連絡がある人もいるようですが、私は10年近く全く連絡がありませんでした。3〜4年前に突然連絡がありましたが、残念ながら候補者で終わってしまった経緯があります。そして2009年、年明けに3度目の問い合わせがあり、最終同意まで進み、4月下旬の提供に向けてコーディネーターさんを中心に動き出したのです。登録から提供まで17年間かかりました。本当に長かった。あまりにも連絡がないため、一時はデーターが抹消されたかと思ったほどです。
 ドナー体験は、大変貴重な経験です。多くの方にこの体験談をお伝えしたいと思います。勝手なもので、普段元気なときには、健康の素晴らしさを理解していないんですね。家族と生活し一生懸命仕事をする。そして飲んで酔っ払って帰ってくる。当たり前と思われている日常生活の中で、健康の素晴らしさを再認識すると共に、「生きるとは何か」を考えました。もし、自分が患者さんだったら何を考えているのかと。現在、生命保険会社で保険のコンサルティングをしながら、ちゃんと『生きること』と向き合っていたか反省しました。
 提供直前には、女性の出産のような『不安と期待』を実感しました。命を救えるという期待と痛みへの不安でした。実際、痛みはほとんどありませんでした。手術の3時間後には自分で歩いてトイレに行っていたぐらいですから、出産は言うに及ばず、腰痛(ヘルニアなど)の痛みの方がよっぽど痛いと思います。一番辛かったことは、入院中の禁酒でしたね。(笑)また、本当に多くの方々の協力と理解がなければ、実現できなかったことだと思います。今回はドナーとしての体験でしたが、いつ自分が、自分の妻が、愛する子供が提供を待つ身になるかわかりません。今回はご縁があり、ちょっとした親切をさせていただきました。バスの席を譲るようなものだと思います。
 ドナー休暇制度や生命保険のドナー給付制度などで会社が応援してくれたことも助かりました。もう一度チャンスがあれば、また提供します。 (神奈川県在住)

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夏休みの家族旅行で

悲しみの中で求めた光、骨髄バンク 大塚礼子(65歳)       【第208号 2009年8月1日号】

【ドナーを求めて】
 7月は私には特別な月です。長男の命日が12日、私の誕生日が13日だからです。一日の違いですが、もし同じ日だったらと思わずにいられません。今も娘夫婦はバースデイプレゼントを用意して祝ってくれます。
 あの頃はまだ公的骨髄バンクがありませんでした。長男は骨髄異形成症候群から急性白血病に転化して、絶え間ない激痛と40度の高熱の中、壮絶な闘病のはてに亡くなりました。福岡の西南大学に牧師になりたいと入学した、まじめで敬虔なクリスチャンです。死んだ子の歳を数える—ということわざがありますが、生きていればもう40歳になるのでしょうか。聖歌隊のリハーサル中に貧血で倒れ、急いで東京に呼び寄せました。あと三ヶ月の命と聞かされた時の驚きと悲しみは、今でもありありと覚えています。
 骨髄移植という治療法があり、それには血液検査をしてHLAが一致したドナーが必要だと言われて、私たち夫婦は親戚、友人といろいろな人たちにお願いをして必死でした。もちろん病院に駆けつけて検査をしてくれた方もいます。でも話の途中で電話を切られたり、居留守をされた時もありました。息子さんは「ドナーになります。検査をしたい」と言ってくれましたが、後日彼の母親からお断りの電話がありました。親子ゲンカになったと苦情を聞いて心を痛めました。たくさんの教会関係の学生さんも検査に来てくれました。昼食代や交通費も辞退され、血液検査の受診をするため長い時間、病院で待っていてくれました。どんなにドナー検査料がかかろうとも、今度こそはと結果を待ち続けた日々でした。
 結局主治医に「もう移植は無理です」と宣告されて、長男の死が迫ったことを実感しました。父親と娘のHLAは完全一致でしたが、息子にはついに奇跡はおきませんでした。六ヶ月の無菌室から個室に移され、孤独な闘病生活の中、誰も責めず一人で耐えて最後まで周りを気づかってくれました。亡くなる直前、西南大学の恩師が上京され、病室までお見舞いに来て下さいました。帰られる時に「彼から好きな賛美歌を聞きました」と言われました。それは葬儀に必要な大切なことだったと後でわかりました。

【涙もかれて】
 「予後三ヶ月の診断が三年も生きられたのは、ご本人の信仰とお母さんの看護のおかげです」医師はそう言って頭をさげて下さいました。その時私に手渡されたものは、ドナー検査のためにわざわざ病院へ来てくれた、大勢の人たちの名前が記されたリストでした。「ご両親がドナー探しに努力された貴重な記録です。ぜひ活かして下さい」しかし悲しみに沈んでいた私にはそれがどんなことなのか、本当は理解できませんでした。名前を見て知っている人がいますが、全く見ず知らずの人たちもいました。
 やがて公的骨髄バンクがスタートした時、ひとりひとりにお礼の手紙を書きました。「残念ながら息子はドナーが見つからず召天しました。生きることを決して諦めずに祈り続けました。やっと待望の骨髄バ
ンクが出来ました。私たちの息子のためではなく、今度は移植を待っているたくさんの患者さんたちのために、ぜひドナー登録をして下さい。愛する我が子を白血病で亡くした親からの心からのお願いです」その後小さなメモに至るまで目に付く全てを焼却しました。

【ボランティアへの道】
 バンクさえあれば、ドナーさえ見つかれば、これ程辛く無念な思いをしなかったはずだとそんな気持ちでいっぱいでした。こちらに戻ってからお世話になった牧師先生にすすめられて、バンクのボランティア活動をするようになり、少しずつ元気になりました。私には骨髄バンクの存在が希望です。声をからしてドナー登録のお願いをして、チラシを渡し、登録会では一人でもドナーの数を増やしたい、それだけを目標にしてきました。
 命を繋ぐ輸血の針が入らない程ダメになった血管を見て「悔しい」そうひとこと呟いて、両目から涙を溢れさせ、声も出さずに泣いていた姿。私が泣いてはいけないと我慢をして、ただ抱きしめた痩せた背中。いよいよ臨終を察知して「僕にはもう鎮痛剤も点滴もいらない。すぐに全部抜いてほしい」強く断言されて、うろたえていた母親、それが最後の言葉だったのに。全てを忘れて今日まで過ごしてきたはずでした。東京の会から会報の『Voice』の記事を書くように依頼され、閉じ込めた思いが次々と噴き出してきました。
 だから骨髄バンクに命の望みをかけて、生きたいと願いベッドで闘っている患者さんのことを、まず第一に考えてほしいのです。
 不毛で虚しい裁判など争いごとは絶対に嫌です。骨髄バンクは何のために創立され、なぜ存在しているのですか?救われた命の感謝の思いを真摯に受けとめて、これからも共に歩んでいきたいと、心から願わずにいられません。 (東京都在住)

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2009年06月14日

助けてあげたい、ただそれだけ 黄木 奈々絵(22歳)      【第206号 2009年6月1日号】

 私は去年の夏、骨髄提供をしました。ドナー登録をした時から、提供したい、と思っていました。一致の通知が来たとき、はしゃぎながら母に話したのを覚えています。でも、未だに提供をした実感はありません。患者さんと会うこともできず、声をかけてあげることもできません。移植を終えて、復帰していく姿を見ることも、結果を知ることもできません。しかし、命の大切さや人を思う気持ちなど、たくさんのことを学びました。
 会社を休まなければならない、何度も検査に足を運ばなければならない、採取日程が変わるかもしれない。ドナーにもさまざまな障害があります。正直、すべてのことに不安でした。入院経験がなく、全身麻酔をして、後遺症が残るかもしれないし、私が必ず元気に退院できるとは限らないからです。家族にはどうしてもと無理を言ったこともあり、余計な心配はかけたくなくて、大丈夫、と笑顔でふるまっていました。
 検査に行き、いろいろな話を聞き、何もかもがはじめてのことで、わからないことがわからない状態でした。しかし、今、私が提供を断ってしまったら患者さんは亡くなってしまうのではないか、断ったら絶対に後悔する、そんな気持ちが私を突き動かしました。名前も顔も知らなくていい、ただ助けてあげたい、ただそれだけでした。無事に提供を終わらせるためにも、事故や病気にならないよう体調管理には気を遣いました。
 採取当日、手術室に向かう私を見送りながら、母は「これで最後かもしれない、がんばってきてね」と初めて不安を口にしました。私は母の不安にも気づかず、心配をかけてしまったと思いました。
 術後、母は「ありがとうございました」と担当医に頭を下げ、笑顔で私を迎えてくれました。私もコーディネーター、担当医、提供にかかわったすべての人に、ありがとうといいました。不安もなく採取に臨むことができたのも多くの人が支えてくれたからです。
 私は今回、周囲の人が骨髄提供にあまり興味を示さず、知識や理解があまり感じられないように思いました。提供前はもちろん私もその1人でした。今の私には、自分の体験を話し、周囲への理解を訴え、伝えていくことが大切だと思いました。
 自分さえよければいい、何の得がある、そのようなことを思っているのではなく、みんなが助け合う世の中になればいいですよね。私が今回提供をしたのも、えらい、すごいと言われるけれど、たまたま骨髄が一致したからで、誰にでもできることです。次、一致の連絡が来たら迷わず提供をします。本当にいい経験ができました。
(埼玉県在住)

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母親と

骨髄提供を終えた娘の母親として 黄木 真理        【第206号 2009年6月1日号】

【適合通知】
「すごいよね。奇跡だよね」「私の骨髄と一致する人がいたんだよ」骨髄バンクから『骨髄適合のお知らせ』と書かれた手紙を握りしめ、今にも踊り出しそうなくらいに、はしゃぎ喜ぶ娘。
「20歳の記念に『骨髄バンクに登録』してきたよ」と誇らしげに話していた日から1年。まさか、娘のところに骨髄適合の知らせが来るとは…。「登録しても、なかなか適合しないから、連絡が来ない人が多いみたい」と知人から聞いていましたし、娘から骨髄バンクに登録したと聞いた時も、他人事のように軽く考えていた私は、急に『不安』の二文字が頭に浮かび、素直に娘と一緒に喜ぶことができませんでした。
 この日から、娘と私の長い長い数ヶ月が始まったのです。何しろ、何もかもが初めての事ですし、近所や知り合いに骨髄を提供したという人は誰もいません。『不安』の気持ちは増すばかりでした。『不安』の気持ちを聞いてほしくて、同じ市内に住む、大谷貴子さん(骨髄バンクを立ち上げた方です)に連絡してみました。大谷さんの丁寧な説明もあり、私の『不安』は薄れていきました。
 大谷さんは、娘にも「怖いとか、嫌だって思うなら、今すぐ断っていいんだよ。無理しないでね」と、強要したり、励ましたりすることなく話して下さいました。「大丈夫です。がんばります」娘は力強く即答していました。娘の気持ちは既に骨髄を提供すると決めていたようです。
【父親の猛反対】
 1ヶ月後、娘は確認検査を受け、その結果ドナーとして選定されたのですが、娘の意思だけでは提供できず、両親の理解と同意が必要でした。「今、私が骨髄をあげれば、患者さんは生きていける。骨髄をあげなかったら患者さんは死んじゃう。私は後悔しながら生きていくのは嫌。私は骨髄を提供したい。」娘は強い意志を持っていました。
 私は娘の意思を尊重してあげたいと思い同意したのですが、父親は猛反対。「嫁入り前の娘の体に傷がつく。家族や親戚が病気で骨髄を提供するなら仕方ないけど、顔も名前もわからない他人に提供するなんてとんでもない。何の得があるんだ。自己満足のためか」と、まくし立てるように反対したのです。
「もし弟が患者さんと同じ病気だったら助けてあげないの?お父さんだって必死にドナーを探すでしょ?私が提供する患者さんのお父さんもお母さんも必死なんだよ。私は助けてあげたいの」と、娘は父親を説得したのです。「わかった」父親は渋々同意しました。父親の態度に深いため息をついた娘でしたが、一度決めた意志を曲げることはありませんでした。
【採取までの日々】
 後日、娘と私は、ドクターとコーディネーターから説明を受け、最終同意書にサインしました。「今から患者さんに間違いなく骨髄移植が受けられると知らせます。患者さんは前処置という苦しい治療に入ります。ドナーさんは、骨髄提供の日までけがや病気をしないように生活して下さい」その説明に、改めてドナーの責任の重さを痛感しました。患者さんのご両親の気持ちを考えたら、何がなんでも娘の理由で移植中止にだけはしたくない。母親として重いプレッシャーを感じたのは言うまでもありません。
 娘の骨髄採取日まであと1ヶ月。娘は私の心配をよそに、アルバイトに行き、友達と遊び歩き、車の運転を止めることなく、普段と同じ生活をしていました。深夜、寝顔を見るとホッとする毎日。咳をすれば風邪をひいたのかと心配し、食欲が無いと言えば、何か食べさせないと体力が落ちると心配して…患者さんのご両親は、私以上にドナーである娘の無事を祈っているはず…そう思いながら、ドナーの母親として、この1ヶ月は本当に緊張の糸が張りつめていました。
【採取当日】
 そして、無事迎えた骨髄採取当日。娘はいつも以上に素敵な笑顔で「いってきまーす」と手を振って、手術室へ。私は「いってらっしゃい」と見送ったあと、ただただ無事に終わることを祈るしかありませんでした。
 偶然ですが、患者さんの元へ骨髄液を届けるための小さなクールボックスを大事そうに抱えた患者さん側の病院関係者の方にお会いしました。「どうぞ、娘の骨髄液を一滴もこぼさず、患者さんに無事に届けてあげて下さい」顔も名前も知らない患者さんですが、待ちに待った移植の日。無事に移植が終って欲しいという私の気持ちから出た言葉でした。
 数時間後、担当医から「無事に終わりましたよ。」と知らせを受け、緊張していた全身から力が抜けていくのがわかりました。麻酔からまだ覚めていない娘の傍に付き添いながら、「娘はがんばりましたよ。
今度はあなたの番。さあ、娘のバトンをしっかり受け取って」「がんばって!!がんばって!!」
 私は患者さんの骨髄移植が無事に終わるよう神様に祈り続けました。今、『命のバトンリレー』が、多くの人達の力で行われている、無事に娘がこの日を迎えられた、患者さんのご両親は今どんな思いをしているのだろう…複雑な思いが込み上げてきて涙が止まりませんでした。
 目を覚ました娘は、口には出しませんでしたが、『不安』と戦っていたのでしょう。大きく深呼吸をしたあと、「終わったね」とつぶやきました。満足そうな笑顔は、今も忘れられません。
【娘を誇りに思う】
 娘は、退院した日から現在に至るまで、「無理をしないように」という担当医の言葉を忘れ、二十歳代の普通の若者のひとりとして楽しい毎日を送っています。以前の娘は、親に反抗することも、家に寄り付かない時期もありました。この先どうなるのか気にかけていましたが、優しい大人に成長していました。この骨髄提供を通して、『命の大切さ』『人の優しさ』を肌で感じたはずです。娘には、さらに素敵な大人になって欲しいと思っています。
 陽の当たることのないボランティアなのだと理解してドナーになった娘を、「怖い」とか「嫌だ」とか弱音を一度も口にしなかった娘を、母親として誇りに思います。そして、娘と移植を受けた患者さんのこれから先の人生に、たくさんの幸せが訪れますように、と心から祈っています。
【命のバトンリレー】
 骨髄提供を終えた娘の母親として、もっともっと多くの人達が『骨髄バンク』を理解して欲しい、ドナー登録して欲しいと思っています。そして、多くの患者さんへ『命のバトンリレー』が行われることを切に願っております。
 骨髄提供の採取当日、病院に駆けつけて下さった、大谷さん、森川さん。わがままな娘を最後までお世話して下さったコーディネーターさん。ユニークな会話で緊張した気持ちを和らげて下さった担当のドクター。優しく接して下さった看護師さんの方々。
 恵まれた環境の中で、皆さんの温かい言葉に励まされ、娘はドナーとしての大役を無事終えることができました。この場をお借りしてお礼を申し上げます。皆様、本当にありがとうございました。
(埼玉県在住)

2009年05月06日

それも元気になってきた証拠 中熊一郎(45歳)        【第205号 2009年5月1日号】

 看病中の苦労話というのは、実はそう無い。AMLのM2型(注:急性骨髄性白血病の1種)と診断されたカミさんは、比較的冷静で模範的な患者だったし、人並みに泣いたりイラついたりしたが、白血病の患者としては健気であまり周囲を困らせなかったと思う。
 毎日、病院に通ったが、それもルーティンというか習慣になってしまえば当たり前になってしまう。「毎日通うなんてエライわねえ」と他人様に誉められたりしたが、子供が小学生になれば毎日通学するのが当たり前になるように、決まり事になってしまえば日常である。時間に融通が利く職種なうえに、上司が仕事量を半分にしてくれたおかげも、もちろんあるのだが。
 むしろ骨髄移植が無事成功し、カミさんが退院して自宅療養になってからのほうが、苦労である。仕事柄、深夜帰宅が多いのだが、「今までキャバクラに行ってきたでしょ⁉」とか言って怒るのである。そもそも同じ雑誌編集者だから、仕事内容や帰宅時間が遅くなっても理解があると思って結婚したのに、退院してから“午前様には角を出す”普通の人になってしまった。
 カミさんにしてみれば、人混みダメ、生もの飲食ダメ、温泉など公衆浴場ダメ、日焼けダメ…とダメ尽くしで、人生何を楽しみに生きればいいの?と言いたくなるだろうし、定期検査の結果次第ではストレスも溜まりまくりだろう。だから仕方ないのかもしれないが、やや心外ではある。
 多分この文章を見て、さらに怒られそうな気配もある。でもまあ、それも元気になってきた証拠、と受け止めようと思っている。 (東京都在住)

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左より、夫の一郎・チワワの豆太(4歳メス)、妻の千香・チワワの大吉(6歳メス)

2009年03月07日

これって強み? 志村大輔(37歳)                 【第203号 2009年3月1日号】

 3年前の2006年3月、会社の健康診断を受けた数日後に健診センターから職場に電話がかかってきました。「血液検査の結果から白血病の疑いがあるので、すぐに血液内科のある病院で診てもらってください」翌日、市内の大学病院へ行って検査を行い、1週間後に結果が出ました。
 慢性骨髄性白血病であることが告げられた時は、懸命の自己防衛反応のためか無感情になったような感じでした。傍から見たら淡々と映ったかもしれません。
 それからグリベックの投薬治療が始まりました。はじめの頃は吐き気がありましたがそれもすぐに慣れ、以前と変わらない生活が続きました。検査通院で2カ月に1回は会社を休むので仕事上の一部の関係者には病気であることを話しましたが、見た目には分からないこともあり、友人も含めそれ以外の人たちには特に話しませんでした。
 その後半年くらい経った頃、仕事上の人間関係で上手く行かないことがきっかけで精神的につらくなり心療内科に行ったところ、鬱状態ということで暫く仕事を休むことにしました。やはり病気になってから心が弱くなっていたのでしょう。
 2カ月後、会社から比較的プレッシャーの少ない仕事を与えてもらい職場に復帰することができました。復帰後間もない頃はオフィスに入る度に気が重かったのですが、徐々に楽になってきて仕事を休むことは無くなりました。心療内科には復職後も1年通いましたが、それ以後は抗鬱薬も飲んでいません。
 それから1年半ほど過ぎたある日、よく行く本屋で何気なく医療コーナーをのぞいていたところ、ある白血病患者の闘病記を見つけました。それが大谷貴子さんの「霧の中の生命」でした。
 ところが買ってはみたものの、なかなか本を開く気になれません。病気になってからずっと、病気に関する情報を積極的に見たり聞いたりすることができませんでした。自分の寿命が分かってしまうような気がして怖かったのです。
 結局、本を開いたのは約1カ月後、念のため落ち込んでも1日かけてリカバーできるようにと土曜日を選びました。やはり読んでいる間はつらくて涙が止まりませんでしたが、はじめて自分の病気に向き合える勇気をもらいました。病気であるからこそ分かること、見えることがある、患者であるからこそ言えることがある、むしろこれを強みとして前向きに生きよう、という気になりました。友人や周囲の人たちにも白血病であることを告白して気が楽になりました。「吹っ切れる」まで2年以上かかってしまいましたが、今は非常にクリアーな気持ちです。
 大谷さんの本にボランティアの呼びかけがあったので、ネットで調べたところ東京の会の存在を知り、昨年末に活動に加わりました。これまで銀座パレード(2008年12月)、箱根駅伝(2009年1月)、全国一斉街頭キャンペーン(2009年2月)、その他、定例会や「おりおり」に参加しています。みな素晴らしい人たちばかりでいつも刺激を受けています。
 また1月には「厚生労働科学研究 免疫アレルギー疾患等予防・治療研究事業/がん臨床研究事業 6研究班合同公開シンポジウム」に行ってきました。素人が聴くにはかなり難しい内容ではありましたが、これら医学的なこと、または行政的なことを含め「まだまだ学ばなくてはいけない」と学習意欲が高まっています。これまで週末といえば、趣味のサッカー・フットサルがないときは特に予定も立てずブラブラと過ごしていましたが、これからはもっと忙しく充実した週末になりそうです。
 幸いグリベックはよく効いていて(現在4錠)、分子遺伝学的効果が出ています。4月はイマチニブ血中濃度と有効性に関する臨床試験に参加します。
 最後に、これからもどうか「東京の会通信」をよろしくお願いします。私もできるだけきれいに「おりおり」できるよう努めます。少しでも多くの方に、特に私自身患者として、闘病中の方々に読んで頂けると幸いです。 (神奈川県在住)

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箱根駅伝PR活動に甥と参加(宮ノ下で)

生き方や考え方が変わった骨髄提供 保居範昭(25歳)   【第203号 2009年3月1日号】

 私が骨髄バンクにドナー登録したきっかけは、数年前に流行した「世界の中心で、愛をさけぶ」のドラマや書籍を見たことがきっかけでした。もともと献血にはよく通っていたため、ドナー登録することには特に抵抗ありませんでした。そのドナー登録から4年後、いつもの骨髄バンクニュースと違った封筒が届き「もしや?」と思いながら封筒を開けると、そこには「患者さんのHLA型(白血球の型)が一致し、ドナー候補のおひとりに選ばれました」と記載された書類が入っていました。誰かの役に立てるかもしれないと思い、提供の意思ありとすぐに返送しました。
 実際に提供するとなると、遠方に住む親の同意が必要なため連絡をしました。私の体を心配しつつ、提供に同意をしてくれました。内心では複雑な心境であったと思いますが、私の意志を尊重してくれ感謝しています。また、会社の上司にも相談しました。入院が必要で何日も休む必要があると伝えたのですが、すぐに許可を出していただきました。理解のある上司に加えまわりの強いサポートがあり、非常に助かりました。
 その後、確認検査・最終同意面談という関門を順調に乗り越え、縁あってか最終的なドナーに選ばれました。そうして進む中、もう少し「骨髄移植」というものに理解を深めたいと思い、患者さんの体験記を読むようになりました。そこには私が今まで全く知らなかった闘病生活が描かれていました。ドナー登録はしていたのですが、骨髄移植が必要な方々がどのような闘病生活を送られているか、全く知りませんでした。ドラマなどではそのような闘病生活まで描かれていないように思います。ドナー登録は簡単にできますが、骨髄移植を受けるということは、非常に勇気のある選択だと思います。また、その患者さんの熱い思いに、ドナーとして真摯に応えたいと思いました。
 提供に際し入院した部屋は、セミクリーンルームのような個室でした。大きな空気清浄機のような機械とドラマでよく出てくるようなビニールカーテンが備え付けられていました。手術室へは歩いて向かいました。その後ストレッチャーに乗せられ、麻酔が始まるとともに体が動かなくなる感覚に襲われ、そのまま意識を失いました。意識を取り戻した際には、痛みは全く感じませんでした。採取部位は2 箇所。蚊に刺された後のような赤い点がしばらく残りました。採取量は予定より多い1リットル近くを採取したと後から聞きました。その後病室に戻り、患者さんからのお手紙をいただきました。移植前処置を受ける前に書いたようでした。「ありがとう」と何度も書いてあり、感動しました。その後の経過は順調でした。手術時に尿道カテーテルを挿入していたため排尿時痛はありましたが、採取部位の痛みなどはほとんど無く、採取翌日には退院しました。
 移植を振り返ってみると、たくさんのことを学んだと思います。また、非常に貴重な体験をさせていただいたと思います。「入院生活」とはどのようなものかをほんの少しだけ実体験することができました。「闘病生活」とはどのようなものかを体験談で知ることができました。「いのちの大切さ」を学ぶことができました。また「人と人とがつながり、共に生きる」ということを学ぶことができました。このように、色々なことを学んだり、全く知らなかったことを知ったり、体験したりして、大切なことを教えていただきました。私はこの移植をきっかけに、自分自身の生き方や考え方が変わったような気がします。
 最後になりますが、患者さんと私以外にたくさんの関係者が尽力してくださったからこそ、今回の移植につながりました。関係者の方々に感謝したいと思います。私は今、充足感でいっぱいです。なお、現在ドナー登録は保留になっています。一年後、再度登録を継続するかどうかの案内が来た際には、迷うことなく登録を継続しようと思います。みなさん、本当にありがとうございました。
(東京都在住)

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2008年04月10日

18年の思い 川上由紀美(39歳)                  【第192号 2008年4月1日号】

 18年前の4月、たった一人の兄弟である弟を白血病で亡くしました。約7カ月半の短い闘病生活でしたが、彼には苦痛の日々だったでしょう。そんな苦痛から救うことができなかった私は、この18年間自分を責め続けてきました。
 そんな私が2000年9月、東京の会に入会。当時は低血圧と服薬中で献血も骨髄バンクへのドナー登録もできない状況にもどかしさを感じていましたが、3カ月後には体調が戻り、その後1カ月もしないうちに初献血に挑戦。採血でもVVR(血管迷走神経反射)を起こすほどだったため、骨髄提供者に選定されることを想定し、自己血採血の予行演習には打ってつけです。また、弟の闘病中にはたくさんの輸血をいただいたので、お礼も兼ねて献血は無事終了したものの、案の定2時間の休憩を余儀なくされました。
 それから月に1回のペースで献血へ、東京の会入会1年後には自前の集団登録会で念願のドナー登録をしました。弟には何もできなかったけれど、これで誰かの役に立てるのであれば喜んで何回でも提供するという気持ちが強かったのを今でも覚えています。
 周囲では適合通知(ドナー候補選定通知)が届き、ドナーとして提供するなどニュースが飛び交いましたが、私にはその兆候すらありません。ところが東京を離れ2年経ったある日、見慣れない封筒にピンときた私は手が振るえ涙があふれていました。もちろん中身は「適合通知」です。様々な感情は後にして、まずは同封の書類に目を通し、提供意思確認書と問診票を正しく記入して、早急に手続きができるようにと慌ててポストへ投函。その後自宅へ戻った途端、感情が溢れ出し、落ち着いた頃にはきっと自分が提供することになるのだろうとの予感がありました。その予感が的中したのは、なんと財団全国大会前の地区普及広報委員研修会中ドナーに決まったとの電話をコーディネーターさんからいただきました。この喜びを一人ではなく、全国の仲間と分かち合える私は幸せ者だと思い、来場していた何人もの骨髄提供者と握手をして仲間から元気と勇気をもらいました。
 確認検査ではヘモグロビン値がギリギリ、更に血圧も低く、かろうじてOKがでましたが、最終同意後は食事だけでなく、睡眠や適度な運動をするなど気をつけ、雪の季節には運転を極力控えていました。術前検診時、調整医師からヘモグロビン値が高ければ採取量を増やし、自己血採血を2回にしましょうと言われて採血に挑んだのですが、あえなく前回同様ギリギリのヘモグロビン値で、相手の患者さんが欲しい量を採取できないのが悔しくて悔しくて、申し訳ない気持ちと自己管理できないことに腹が立ち自分を責めました。
 予行演習(献血)も50回を数えるほどになっていたので、自己血採血は心配することなくスムーズに終わり、その足で初詣によく行った採取病院近くにの神社へ無事に採取と移植が済み、その後の快復を祈ってお参りしました。
 適合通知から約半年後、採取のため入院。調整医師の担当病棟に入院する予定が、前日になって脳神経外科に病棟が変更され、当日行くと看護師に「何で入院されましたか?」の問いに目が点になってしまいました。麻酔科の説明は異例の7分で終了。その中で麻酔時の呼吸管理で歯が損傷する可能性があるとの説明があり、心の中では「この病院には歯科があるから」と思い、その直後口にしたのは「1本損傷する度に採取量を100cc増やして下さい」で大笑いしました。
 翌朝、東京で雲ひとつないきれいな朝日が昇るのを見て、私は手術室へと向かいました。無事採取が終わり、声を掛けられた時には「細胞数は?」と聞く私。採取医師が「通常よりありましたよ」の言葉を聞いて、ホッとしたのかまた意識が遠のいていくのがわかります。夕刻にはコーディネーターさんがいらしてアンケートに答え、血圧が低いことを伝えると「じゃ~、血圧を上げる薬になるかなぁ」と言いながら、封筒を差し出すのです。それだけで涙が止まりません。それは患者さんからの手紙だとわかっていましたから。封筒には2通の手紙、1通は患者さん本人、もう1通は患者さんの奥様からでした。それは今でも私の大切な宝物です。
 あれから2年余の月日が流れました。患者さんのその後は知る由もありませんが、同じ空の下、どこかで2度目の誕生日を祝っていてくれればとの想いで胸がいっぱいです。いつか許されるのであれば「お兄さん」あなたと逢えることを楽しみにしています。
 これで弟は不甲斐ない姉を許してくれるかな?
 きっと彼のことだから鼻で笑っていそう。そしてもう一度「チャンス」はあるよって言うでしょう。
 彼は闘病中だけでなく、今なお様々なことを教えてくれます。素敵な仲間との活動、そして彼がいなければ骨髄提供もしていなかったでしょう。私の骨髄提供は私だけのものではなく、皆さんと一緒だからこそ成しえたことだと思っています。支えて下さっている全ての方へ感謝申し上げます。 (北海道在住)

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2008年04月03日

子どもはいないが、子どもができたような 菅井あけみ(42歳)【第189号 2008年1月1日号】

 私がドナー登録したきっかけは、白血病を患い骨髄移植をした元患者Aさんとの出会いだった。Aさんは、私が転職をした会社の先輩社員。多少表現は古いがバリバリのキャリアウーマン。入社して数ヵ月たった頃、Aさんが白血病の元患者さんだと聞かされた。驚いたと同時に、骨髄移植という治療法にとても感銘を受けた。Aさんとの出会いから約1年後の1997年、私はドナー登録をした。恥ずかしながらこの時まで献血はもちろんのこと、ボランティアと呼ばれることは何一つ経験がなかった。私にとっての初めてのボランティアがドナー登録となった。
 それから約5年後の2001年夏「HLA適合のお知らせ」(ドナー候補者の1人になった旨の通知)を受け取った。ドナー登録していたことなど既に忘れかけていたので「えっ!!」と驚いたが、次の瞬間、まるで合格通知を受け取ったかのようにとても嬉しかった。まだこの時点では候補者の1人なのだが、私がドナーになる!と確信があった。その後4ヵ月かけて、最終的にドナーになるための面接や確認検査などを行った。メディカルチェックはまったく問題なし。ドナーになる条件として本人の意思はもちろんだが、一番の条件は健康であること。私の健康はこの時に証明されたことになる。学生時代より常にスポーツをしていたこと以外、身体を気遣うことなどしていなかったのに、こうして第三者から自分の健康体を証明してもらえたことに少し嬉しかった。
 そして、最終同意も無事終えて・・・・・・と言いたいところだが、ここで大きな問題が持ち上がった。母親が大反対したのである。父親は、私と母親との板ばさみ状態。小さい頃から人の役に立つようにと、両親に言われて育てられてきたので、ドナーになることは当然大賛成してくれるものと思っていた。ところが、である。「見ず知らずの人のために、何であなたがそこまでしなくてはいけないの?」と。話し合いは平行線のまま何日も続いた。最終的に母親を説得することはできなかった。父親に対しては私の気持ちを押し通し、最終同意にサインしてもらった。
 健康体である私は入院経験などもちろんない。骨髄提供をする不安というより、入院という非日常の体験にワクワクしていた。入院に必要なモノを準備するのも小旅行気分。デジカメも持参して、いろいろ記録しておこうと思った。
 「適合のお知らせ」をもらってから約半年後の2002年冬、骨髄を提供した。私が提供したのは、10歳未満の男児だった。相手が小さかったので、自己血を採血しておく必要もなく、採取した骨髄液は少なかった。当日は朝8時過ぎに病室を出たらしい。らしいというのは、病室で処方された催眠導入剤の影響で意識が朦朧としていたからだ。話しかけられれば応えることはできるが記憶はない。あんなに楽しみにしていた手術室内部も見ることはできなかった。病室に戻ってきたのはお昼頃。増すの影響でしばらくウトウト。このときも問いかけには普通に受け答えしていた。が、記憶はない。鎮痛剤のお陰で痛みはほとんどなかった。強いて言えば、採取当日はベッド上で安静にしていなければいけない事と、尿道カテーテルを挿入されていたのが一番苦痛だった。
 退院後は週末をはさんで3日後に出勤した。採取部位は少し重い感じと違和感はあったが普通の生活に支障はなかった。現在、提供から約5年が経つが、ドナーになったことでの健康上の問題は一切ない。
 私には子供も兄弟もいないので、血の繋がった肉親は両親しかいない。骨髄を提供したことによって、私の血を100%受け継いだもう1人の人間がこの世に存在することにすごく不思議な感じがする。また、提供した相手が小さな子供ということで、自分の子供ができたような気さえする。名前も顔も分からないけれど、お互いに健康であればいつか何処かで逢えるような気さえする。
 骨髄を提供したあと、周りの人から「すごいね~」とか「えらいね」など労いの言葉を頂いた。しかし、自分では全くそうは思わなかった。いま自分にできることをしただけ、という気持ちでしかなかった。以前は、ボランティアは人のためにする、と思っていたが、ドナーの経験を通じてボランティアは自分のためにする行為だと思うようになった。そしてボランティアは自己満足のためにしているとも思える。これからも今自分にできることをささやかではあるが続けていけたらと思っている。 (東京都在住)

「満2歳」の誕生日を迎えて思うこと・・・・・・ 峯 直法(57歳) 【第186号 2007年10月1日号】

 一昨年の秋に悪性リンパ腫の完治を図るために骨髄バンクの登録ドナーさんから骨髄提供を受けて骨髄移植術を行い「第2の命」を授かった私ですがこの度無事に「満2歳」の誕生日を迎えることができました。ありがたい限りです。深謝!
 移植までには、ドナーさんになることが確定していた方が私の入院予定日のわずか10日前に突然キャンセルされるとの極めて衝撃的な出来事もありましたが、骨髄バンクのコーディネーターを始め、たくさんの方のご尽力によりその約1ヶ月半後には新たなドナーさんが得られ、青空がとても眩しい2年前のあの日にドナーさんから採取された骨髄液が約1時間かけてCVカテーテルを通して私の体内に輸注され無事移植術は完了しました。
 新たに得られたドナーさんは自分とフルマッチのとても理想的な方。そのことも幸いしてその後は概ね順調に推移、この度元気に「満2歳」の誕生日を迎えることができました。この間、ドナーさんを始め骨髄バンクや病院のスタッフ、東京の会やグループ・ネクサスの中間、職場関係者、友人、そして我が家族など多数の方からたくさんの善意と心温まるご支援をいただきました。心から感謝し、お礼申し上げます。
 ところで「満2歳」の誕生日は「寛解」から「治癒」への大きなターニング・ポイントになる日といわれているとても意味ある日です。移植した患者の中の少なからずの方が残念ながらこの日を迎えることなく、亡くなっているとの厳しい現実がある中で、元気に「満2歳」の誕生日を迎えることができたことを素直に嬉しく思います。神様が私にくださったとても大きくて、何にも変え難い大事なプレゼント。粗末にしては罰ば当たります。大切にしていかなければなりません。
 かくなる上はご支援いただいたたくさんの皆様方に対する感謝の気持ちを忘れずに、しっかりと「生き続ける」こと、このことこそ今の自分に課せられた最大にして、最も重要な使命だと考えます。これからも油断すること無く、しっかりと「生き続けて」まいります。皆様方には今後ともご支援のほどよろしくお願い申し上げます。
 なお、骨髄バンク制度のルール上、ドナーさんが何処のどなたであるかは教えて貰えないこととなっているために、とても大事な節目の「満2歳」の誕生日を無事に迎えることができたことをドナーさんにお知らせできません。そのため、今般、私の在住している地のいわゆる地元新聞の投稿欄に次のような投稿をしたところ、幸いにも掲載されたところです。参考までにその原稿の内容を最後に付記して、拙稿を閉めさせていただきます。 (石川県在住)

「満2歳」を迎えた喜び
 あれから二年が経過します。今、私にはあなたと全く同じ血液が流れています。血液型もあなたと同じ型に変わりました。あの日、あなたから採取された骨髄液は悪性リンパ腫治療のために私に移植されたのです。
 骨髄バンク制度のルール上、お互いについては教えて貰えないためにお目にかかることはできませんが、あなたの善意で授かった「第二の命」は元気に満二歳の誕生日を迎えます。骨髄移植後、短期間でなくなる方もいる中で「寛解」から「治癒」への大きな節目となる「満二歳」を無事に迎えられることを素直に嬉しく思います。
 50代半ばにしてせっかく授かった「第二の命」です。大勢の方から賜った励ましとご支援に感謝しつつ、今後もしっかりと生き続けます。それが、私に課せられた最大にして最も重要な使命だと思っています。見知らぬあなたへ。本当に有り難うございます。【平成19年9月23日北國新聞朝刊「地鳴り」(投稿欄)に掲載】

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元気になったよ! 松本隆志(30歳)               【第184号 2007年8月1日号】

「病名は、慢性骨髄性白血病です」
 こんな風に、始まりは突然でした。
 ドラマ等で、よく表現される様な「告知をする、しない」というのは、もう古いみたいですね。あまりにあっさりし過ぎていて、拍子抜けしてしまいました。
 発覚したのは、2003年の9月でした。足を怪我した時に行った血液検査から判明しました。ホントもうビックリでした。
 「たかが、足の怪我、命に関わるものじゃない」と完全に高を括っていましたが、メチャクチャ命に関わっちゃっていました。告知をされた当時、怪我の治療の為、入院をしていたので、夜は病院のベッドの上で自分の身に降りかかった、ありがたくない現実を一人で受け止めることになってしまいました。
 「白血病って何?」「慢性と急性の違い?」「治るの?」とか、一人という不安も手伝ってか、頭の中は混乱状態でした。「嫁さんに申し訳ない・・・」ある程度、落ち着きを取り戻すと、そんなことを考える様になっていました。結婚して2年、子供こそいませんでしたが、幸せとはこういったものなのだと感じることのできる穏かな日々を送っていました。それがこの告知によって一気に崩れ去ろうとしていました。
 「別れる?」いつしか頭の中でそんな思いも巡り始めていました。「子供もいないし、死んじゃうかも知れない人間と一緒に居ることなんてないよな・・・・・・」気がつくと携帯を開きメールを打ち込んでいました。返事はすぐに返って来ました。「あんまり余計なことを考えないで、今は寝ることに集中して、そばに居てあげられなくてゴメンネ」嫁さんの優しさを感じるのと同時に、現実から逃げようとした情けない自分に腹が立ち、涙がこぼれ落ちていました。「泣き言なんかいってられない」嫁さんの優しさに応える一番の方法は「いつまでも隣にいてあげること」単純かも知れませんが、寝ずに考え、無い知恵を絞って出した精一杯の結論でした。
 その後、私たち夫婦の心配は良い意味で裏切られる形となりました。薬の効きが良く、副作用も全くといって良いほど出ないまま、安定した症状を保つことができていました。2005年9月、薬を飲み始めて2年が経過していました。この時のマルク(骨髄検査)によって判明した事実により、また大きな転機を迎えることとなりました。これ以上は薬の効果が来たいできず、完治を望むのであれば骨髄移植しかないことを医者から告げられ、選択を迫られたのです。「飲み続けても治る見込みは無いが、現状維持を続けることができる薬の服用を取るか」「リスクは大きいが完治が見込める移植を取るか」究極の選択でした。しかし、あくまで完治にこだわりたい私としては、決断に対して迷うまでもありませんでした。家族には「もう少し慎重に」と制されましたが弟がHLA検査で適合していたという心強い要因を説明し、納得をしてもらい、移植をする方向で話しを進めていきました。
 そして2006年6月。私は弟の細胞によって新たに生まれ変わることとなりました。心身ともにベストな状態で移植に臨み、また弟の細胞も最高の状態で提供に至ることができたので、心配されたGVHDも予想より軽い症状で済み、順調な経過を辿ることができました。骨髄提供に際して、弟にも少なからずリスクが発生してしまいますが「兄貴が治るのなら」と快く応じてくれました。本当に感謝です。
 2006年7月、移植から1ヶ月も経たない間での退院でした。1年が経過した現在も症状は安定しており、社会復帰を目指して自宅療養をしています。私がこうして居られるのも治療に当たってくれた医療スタッフの皆さまや、励ましてくれた家族や友人たちあってのものだと思っております。これからの人生はそういった方々への感謝の気持ちを形に変えるべく精一杯行きたいと思っております。
 「皆ありがとう。俺、元気になったよ!」  (東京都在住)

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ドナーとしての仕事を追えて(後・最終回) 武正章(48歳)                                       【第182号 2007年7月1日号】

【全号からの続き】
○「バリア・フリー」ということ
 「Barrier Free」(バリア・フリー)という言葉をよく聞く。いろいろな考えに基づいて、物理的なものをはじめとする社会のバリア(障壁)を排除して行く考え方かも知れない。ところが、最大にして最強の壁であるバリアは、人間の心理的なバリア、時には、自己防衛的なものであり、時には偏見であり、要因は様々であると思うが、これはやっかいである。部員にも言うことがある。「新しいことに取り組んだり、難しい相手に勝ったり、有名な相手校に勝ったりすることの、一番克服しなくてはならない敵は、自分自身の中にあるものだ」心理的なバリアは、人間が生物として生きていく本能として備わったものが、理性(?)によって増幅したものかもしれない、などと推測している。
 ドナーとしての仕事が社会にとけ込み、自然なものとなるには、この心理的なバリアを一人一人が乗りこえることが、最重要課題だと思えてくる。職場で特別視されずに、自然に何日か休んで骨髄を提供するなんて日が来るとよいと思える。
 埼玉県には「ドナー休暇」という優れた制度があって(ただし、付き添う配偶者にはドナー介助休暇はない)、私もこれを最大限活用したが、これを知らない人がいるかもしれないし、知っていても「特別な人が特別なときだけ使う休暇」なんて思われたりしていたら、、もったいない。丸山真男が「日本の思想」で「権利は権利として行使してはじめて権利たりうる」というようなことをいっていたと思う。「ドナー休暇」を取得して行使する権利が、権利として自然に認知され、広く行使されるためには、まず、制度やその他のハード面の改善よりも、心理的なバリアを取り除くことであると、痛感している。そのバリアを乗りこえてた人が増えれば増えるほど、ハード面の整備も社会への浸透具合も進んでいくと思う。
○命の重さ
 「人はみな平等で、命の尊さは同じである」という意味の言葉をよく聞く。確かにそう考えることは重要であり、人権や命、安全を守っていくためには、重要な考え方である。しかし、そうとは言えないかもしれないと思うことがある。人にとって最も勝ちの高い命や人権は、自分の命や人権であり、次は、家族のそれであり、3番目以降にその他の人々が大切にされるのではないだろうか。「家族が自分の骨髄を必要としているなら、できるけど、血のつながりのない人だったらできるかなぁ」「家族がそこに倒れたら、人口呼吸をしたり、AEDを浸かったりすることはあると思うけど、見ず知らずの他人だったらどうしようかなぁ」などという言葉も耳にする。しかし、よく考えてみると、みんな同じように「自分の命や人権を守りたい」と考えている、つまり、みんあ自分と同じように「自分や家族の命が大切で、それを失いたくない」と考えている自分以外の人々の命や人権を奪ったり、助けなかったりすることは、命の重さや人権を守ることの大切さをきちんと理解していないことになるはずである。
 また、目の前に傷ついて助けを求める人がいたら、助けるが、自分の目につかないところであったら・・・・・・。これもまた、深い意味で命の重さや人権を守ることの大切さを理解していないことになるのだろうか。たとえ、自分の目の前でなくとも、救いの手をさしのべられるような、逆に目の前に自分を助けてくれる人がいなくても、助けてほしいという意思表示をすれば、きっと救われるという社会の合意が形成され、そのシステムが構築できればよい、と思う。さらに、最近の事件や事故報道を見たり聞いたりする度に、強く思う。飲酒運転の事故で幼い命が奪われて、厳罰化の基準改正が進んでいる。しかし、声にならない声で、救いを求める人々の声は、どのくらい届いているのだろうか。この声にも、社会はもっと敏感になっていく必要がある。そうではないだろうか。
○感謝の気持ち
 今回の貴重な経験は、自分の健康な身体を作ってくれた家族と今回の行動の最大限の理解をしてくれた多くの人のおかげである。感謝したい。そして、こんないい生き方のチャンスを与えてくれた大谷貴子さんにも感謝したい。ドナー登録者の増加とレベルアップのための意識啓発が必要だという、報道を目にする。自分の声がそれの一助になれば幸いである。【完】  (埼玉県在住)
※武正さんのメッセージは3回にわたって連載しました。

2008年04月02日

ドナーとしての仕事を追えて(中) 武正章(48歳)                                       【第182号 2007年6月1日号】

【前号からの続き】
8:30頃 手術室に到着して、ストレッチャーの上で、心電図や点滴ルートの確保を始める。看護師から「これから酸素を送ります。大きく息をしてください」と言われるがままに、深呼吸をしている。「これから少し眠くなりますよ。」と言われた瞬間から、意識を失う。
11:00頃 リカバリールームで「武正さん」と呼ばれて意識を回復。「これから病室に戻りますよ」「あれ、どうしたのかな?」「まさか、終わっていないだろうに」足に触ってみる。「ある」「あれ?変だな。さっき、眠くなると言われたばかりなのに」腰のあたりに違和感がある。なにか、ペタッと貼ってある。「終わったんだ」安心したような、狐につつまれたような、拍子抜けした感じ。
 自分では、骨髄の採取をやはり頭の一部分で「特別視」するところがあったのかもしれない。ところが、終えてみると、自然に、普通に、何気なく、何事もなく終わっていた。麻酔科の事前説明でこう言われた。「患者さんは、全身麻酔をほんの一瞬と感じるようです」まさに、その通り。これは無事に終えたからいえることかもしれないが、骨髄の採取ということが、医療技術や薬品、器具の進歩によって、そして、従事する人たちの努力によって、今回、自分が体験した以上に、「普通のこと、何も身構えることなく自然に臨めること」になる日が来ればよい、と思う。
11:30過ぎ 病室に戻って間もなく、妻が来室。意外に元気で意識があることにびっくりしたり、安心したりしている様子。すぐにのどが渇いて、妻に冷蔵庫から飲み物を出してもらって飲んだ。すぐには飲めない人もいるらしいが、自分の強い身体に感謝した。看護師さんも安心している。すると、昼食まで出た。さすがに、食べ物までは入りにくい。しかし、一口食べた。当日午後から夜にかけては、麻酔の影響か、貧血症状か原因は不明だが、眠かったり、食欲が出なかったりしたが、翌日には全快した。
○採取後の病室移動で
 採取翌日、個室から大部屋に移った。4人部屋であるが、皆さん頭髪がない。抗ガン剤の副作用等で抜けてしまったのだと思う。自分はもう元気で、3食とも完食。昼前には、4階からエレベーターで地下の書店に降りて、階段を上ってみたり、廊下を歩き回ってみたりした。暇である。部屋にも居にくい。どうしてかというと、自分が健康であることが、申し訳なく、特別であるように感じてしまう。前にいるおじいちゃんは、看護師のおねぇさんに叱られて(?)いる。「歯磨きを強くしちゃ、だめです。早く氷で冷やしましょう。それから、便が出ないからと言っても、無理にしないでください。血が出るとたいへんよ」このおじいちゃんは、血小板が少なくなって血が止まらないようだ。健康であることが何か申し訳ないような変な気持ちがする。自分が骨髄提供をしましたなんてことは、一切言えない。
 そこへ大谷貴子さんが来た。大谷さんにも、何とも不思議な健康感であると伝えた。
○人としての責任
 残念ながら、今の職場にドナー経験者はいない。誰もが「すごいですねぇ」「まねできないなぁ」「頑張ってください」といって来た。あまり特別視してほしくないというのが、本音だ。自分はひねくれた性格の持ち主なのか、「これって、差別?」と感じたりする。よくないなぁ、と思う。確かに、ドナーとして骨髄提供をする人はまだ少ないかもしれないが、それが特別視されてはまずい。「この偏見(?)を、何としてもぬぐい去っていくことは重要な仕事だ。」なんて、少しばかり。意欲が湧いてくる。
 「Noblesse Oblige」(ノーブレス・オプリージュ)という考え方がある。「責任ある立場に身を置いている者、優れた教育を受けた者は、それ相応の責任を社会に対して果たすべきである」という思想である、と自分は考えている。最近の自分の仕事の基本姿勢はこれである。今回のドナーとしての仕事もこれの一つ、といってよいかもしれない。自分が生きてきた証を、一つのこしたいとも思っている。一つクリアしたかもしれない。【この稿続く】  (埼玉県在住)
※武正さんのメッセージは3回にわたって連載中です。次回は最終回。

2008年01月03日

ドナーとしての仕事を追えて(前) 武正章(48歳)                                          【第181号 2007年5月1日号】

○出会い
 自分の住む町の、自分の家でよく利用する食料品店がある、そこに、数年前にとても元気なお嫁さんが来た。名前は大谷貴子である。彼女との出会いや彼女の生き方は、自分の生き方や命への思い、人を助けるという思いに大きな役割を果たした。人との出会いは行き方を変えてくれる。これからも、さまざまな縁を大切にしたいと思う。

○子どもたち(娘・息子と部員たち)
 娘と息子には、ドナーに決定してから少しずつ話はしてあったが、入院前日に「明日から、骨髄提供のために入院するから」と言っても、「あっ、そう」という感じ。「感動のない奴らだ」と思うが、いつも家を空けることが多いので、驚かないのかもしれない。「どうせ、うちの親父は・・・・・・・・・」と思っているのかもしれない。逆に肩の力が抜けた。逆にそれをねらっていたら(それは決してないと思うが)、まさに「後生畏るべし」しかし、彼らが成長したときに、ドナーになってくれたら、自分の生き方が、子に受け継がれたようでうれしいと思う。そうなってほしい、と思う。
 学校の部員たちは、これとは逆だった。入院前日の練習終了後、職員室にキャプテンが来て、「先生、ちょっと来てください」と言うので、行ってみると、全員集合している。前日の公式地区大会で久々の県大会出場を決めたばかりだったが、「先生、明日から頑張ってくださ」と、試合に持って行った千羽鶴を差し出された。ちょっと目が熱くなった。「これは昨日のやつだろ。先生に渡してどうするんだ?」と言って、目の熱さをごまかした。何か、何人かが言ったが、覚えていない。実はとても感動していた。部員たちの勝利の喜びの涙をすっている千羽鶴なんて、最高のものを贈られるなんて、教師冥利につきる。やられた、ありがたかった。なんか、とてもいい子たちに思えてきた(実際にもいい子たちである)。
 我が家の子どもたちの普通の対応と、部員たちの特別な対応とは、いわば、逆のようだが、自分に湧いてきた思いはどちらも同じで、「ちゃんとここに帰ってこよう」だった。だから、1日も早く帰宅していつも通りに生活したり、コートに立ったりしてやりたかった。担当医の先生やコーディネーターの方にわがままを言わせていただいて、1日早く帰宅したのは、このためである。木曜日に採取し、土曜日には我が家で酒を飲み、日曜日にはコートに立った。仕事を終えて帰ってきた、という思いが湧いてきた。
 「自然に行って、自然に帰ってきた」このように思う人、子供が増えることが、これからのドナー啓発に必要だ、と思う。

○採取当日のこと
6:00 起床。「さぁ、今日だな」と気合いが入るかと思えば、自分自身けっこう力が抜けている。力まずに、ことに臨めそう。洗面をして、口をゆすいで、準備に入る。
7:15 看護師2名が浣腸に来る。女性二人におしりを見せて、浣腸を受けるなんて、それを自分自身で見たら「何と情けない格好を!」と思うかもしれない。しかし、何の違和感もなく、浣腸されてしまうことが不思議。看護師の不思議な力?
 浣腸を終えて、看護師から「5分くらいは我慢して。」と言われた。その時、7:22.しかし、3分弱で我慢しきれずにトイレで排泄。
8:00 用意した手術衣とT字帯をつける。T字帯というのは、いわば「ふんどし」で、なかなかつけ心地がよい。小さい頃、死んだ祖父がふんどしだったことを思い出す。「けっこう似合うかもしれない」なんて思う。不思議な感覚。たいへんなことに臨むという緊迫感が自分にない。
8:15 看護師と担当医の指示で病室前からストレッチャーに乗り、手術室へ行く。天上ばかりを眺め、「手術したときの両親(母はすでに死去)や兄は、こんな感覚と景色で手術室へ行ったのか」などと思う。考えれば、病気だった彼らと自分の立場は天地の開きがある。【この稿続く】 (埼玉県在住)

※武正さんのメッセージは3回にわたって連載します。

2008年01月02日

仕事と骨髄提供の狭間で 笠原誠(40歳)                                                                 【第178号 2007年2月1日号】

 そもそものきっかけは、はっきり言って覚えていません。献血のついでだったか、腎バンクの登録時だったか、アイ・バンクの登録時だったか、よく覚えていないのです。
 オレンジ色の封筒で「親展」と書いてあり、普段は小さな封筒で小冊子だけが送られてくるのに、その時だけは大きな封筒だったので「遂に来たか!」と覚悟を決めました。ちょうどその頃転職活動中の大変な時期だったので、その後の日程を決めるのにえらい苦労しました。
 何より不満だったのは「平日の午前中限定」だったということです。健康診断や自己血採取(採取後に自分の体に戻す為に予め採血しておく)は平日の午前中(あるいは午後)でも構わないと思います。何より病院の設備を使わなければならないのですから。でも単なる説明や意思確認や最終同意は、平日の午前中や午後である必要は無いと思います。場所も病院である必要は無く、それこそ提供者(ドナー)の勤務先の近くの喫茶店やホテルのロビー等で、平日の夜でもやろうと思えばできるし、土日祭日の昼間でもできると思います。それは「設備の都合」ではなく「人間の都合」なのです。
 去年9月に新宿のパークタワーであった全国大会で、提供者側の「都合つかず」といった理由でコーディネートが中止になったとありましたが、私にはその気持ちが良く分かります。したいのに提供出来ないドナーの立場も理解して欲しいと思います。
 私自身の場合は3月に提供者として選ばれ、4月から新しい勤務先に移るのに、その途端平日に休まなければならないことに、かなり抵抗を感じました。何とか都合をつけて最初の説明を受けたのですが、その後転職先の方が駄目になってしまい、また一から職探しをしなければなりませんでした。
 ま、それで日程に余裕ができたのですが、次に決めた所でも、面接の時に予め骨髄バンクのことは話しておきました。その上で採用されたのですが、今度は最終同意や健康診断や採取の日程を決めるのにも大変で、そのうちにせっかく決めた仕事も1カ月半で辞めざるをえなくなり、またまた職探しの日々。
 さらにサッカー・ドイツ・ワールド・カップのブラジル対日本戦の朝に採取が決まり、午前3時~4時に始まる試合をどうしても観たいとダダをこねて、コーディネーターの人を困らせました。要するにそのサッカーの試合を病室で観終わって、2~3時間したら採取という日程でした。
 もっと言えば、現在勤めている会社の面接が入院前日で、採用通知が面接日の夜遅くに電話があり、退院の翌々日が入社日だったのです。幸いなことに腰の痛みも無くて、退院した当日にドラムを叩けたくらいでした。ただ尿導カテーテルの痛みだけは4~5日残りました。排尿する度に激痛が走り、更に朝、勃起時にも痛くて目が覚めた程でした。こんなに痛いのなら初めから言って欲しかったです。事前の説明では、腰の痛みばかり強調されていた様な気がします。それもちょっと不満でした。
 でもこれからは少なくとも男性に対し、どれだけ痛いかを説明できるようになったので、その部分に関しては良かったと思います。
 そんなわけで今の会社で、ある人に9月に新宿であった全国大会に行ってきます、と話しをしたところ「うちの母親は骨髄バンクのボランティアやってるよ。あと姉は提供者だよ」と言われ、びっくりしました。
 それが現在、東京の会の山本さんの息子さんとの出会いであり、私がこの会に携わるきっかけとなったのです。
 財団法人の骨髄バンクには、提供者同士の横の繋がりといった場所を求めることはできませんでした。それはそっちで勝手に見付けてって感じでした。感謝状なんて要らないから、そういった提供者同士の横の繋がりを持たせてくれる様な場を提供して欲しかったです。もちろん個人情報保護法との兼ね合いもありますから、希望者だけでいいと思います。
 今のままじゃ「あげっぱなし」で終わりです。何か骨髄を提供したという「証し」が欲しいのです。そして何より自分が生きていると言う「証し」も……。 (埼玉県在住)

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2008年01月01日

母がお百度参り 嶋本秀幸(35歳)                                          【第176号 2006年12月1日号】

 2005年9月、それまで全く興味も無かった、名前も知らない会社、プルデンシャル生命保険株式会社に出会い、昔からそうなるように決まっていたかのように入社しました。すべては、ここから始まっていました。
 骨髄バンクの存在は、以前から知っていましたが、自分にはかかわりのない遠い世界の事柄だと思っていました。プルデンシャル生命には、年に一度グローバルボランティアデーという行事があって、その日は全社員をあげてボランティアをすることになっています。私の所属する福井支社では、全員で献血をすることになり、私もその日に献血をしました。その現場に、骨髄バンクのドナー登録ができるコーナーが設けてありました。それならドナー登録もやろうということになり、その日約30人がドナー登録をしました。そのときは、まさか自分が適合するとは思ってもみませんでした。
 ところが、そのわずか4カ月後、一通の青い封筒が届きました。骨髄の型が一致したとの知らせでした。最初はあまりにも早く適合したので、とにかくびっくりして、少々戸惑いました。しかし、35年間わがままに生きてきたこんな自分が、少しでも他人様のお役に立てるのであれば、提供させていただこうと思いました。幸い、妻も「おめでとう」と言ってくれたので、喜んで提供させてもらおうと決心しました。
 その後は、コーディネーターの方がとても親切に対応してくださいましたので、全く不安はありませんでした。数回の検査を受け、先生からの説明を妻と一緒に聞き、最終同意書にサインをすれば、あとは採取の日を待つだけでした。
 しかし、私の中にひとつだけ心配なことがありました。それは、私の両親が全面的に賛成したわけではない、ということでした。両親は、言い出したら聞かない私の性格を知っているので、諦めているだけで納得はしていませんでした。今は医療技術も進歩しているから心配ない、とはいえ、わが子を思う親の気持ちというのは、そう簡単に割りきれるものではないのです。私にも3人の子供がいますので、その気持ちも痛いほど分かりました。後で聞いたのですが、採取の前日、私の母は神社へお百度参りに行っていたということでした。ありがたいことです。健康な体に産んでもらっただけでなく、ここまで愛情いっぱいに育ててもらったことに感謝し、涙が溢れてきました。
 入院初日は、最後の血液検査などを終えて、何をするということもなく、少し退屈でしたが、あっという間に過ぎていきました。普段仕事ばかりで、ゆっくり休むこともあまり無いので、貴重な睡眠時間だと思い早めに休みました。
 採取当日。自分でも不思議なくらい緊張することもなく、冷静でした。自分の周りを先生と看護師さんたちが忙しくされているのを鮮明に覚えています。手術室へ、ベッドに横になったまま移動し、天井に見える大きなライトが印象的でした。これまで入院といっても、盲腸くらいしか経験の無い私には、すべてが新鮮で恐怖心などは全くありませんでした。
 まもなく、全身麻酔の注射をうたれ、冷たい液体が体に入ってきたなと思った時には眠っていました。そこから先の記憶は全くありません。
 次に目が覚めた時は、午後1時頃でした。少しだるい気はしましたが、別につらいということはありませんでした。ただ、尿の管がついている関係上、自由に動けないのが嫌でした。そこから尿の管を外すまでの3時間くらいがいちばん苦しい時間でした。
 ようやく管が外され、自由になれた私は、食事をして、少し歩いてみました。予想以上に痛みも少なく、そのときから全く普通に生活できそうでした。採取後も先生とコーディネーターの方に気を使っていただきまして安心して過ごすことができました。
 今回、骨髄液の提供という、いままでの自分では考えもつかなかった貴重な体験をする機会を与えてくださった骨髄バンクとプルデンシャルに感謝の気持ちでいっぱいです。ボランティアは、それを通して自分を成長させるのだと身をもって知ることができました。
 現在、骨髄バンクへの登録をためらっている人や適合したけれど提供に踏み切れない人がたくさんいると聞いたことがあります。そういう方は是非、怖がらずに勇気をもって一歩踏み出してほしいと思います。もし、身内に骨髄液を必要とする人がいたとしたら何としても助けたいと思うはずです。ボランティアはまず、相手の立場に立つところから始まるのだと思います。勤め先の理解も必要でしょう。たった4~5日の入院です。堂々と休める環境づくりも企業に求められます。
 近い将来、白血病が人間の助け合いによって、治る病気となることを希望します。( 福井県在住)%E5%B6%8B%E6%9C%AC%E3%81%95%E3%82%93.bmp

私の中に生き続ける親友の志 藤井裕久(44歳)                                     【第175号 2006年11月1日号】

 私が「白血病」という病気を知ったのは小学生の時でした。幼なじみのお姉さんが小学生で亡くなり、「白血病は不治の病」と聞かされていた当時の私は、言い知れぬ恐怖を覚えるとともに大きなショックを受けたことを今でも覚えています。
 また、骨髄バンクの活動を知ったのは、7年前に富山青年会議所の例会で、大谷貴子さんの講演をお聞きした時のことでした。恥ずかしながら、大谷さんの講演をお聞きし、骨髄移植のことを知るまでは「白血病は不治の病」という間違った知識を持っていました。自らの発病と闘病体験で死に直面した心の葛藤、そして骨髄バンクの活動、普及にかける情熱に触れ、小学生時代の体験を思い起こし「自分も何かしなければ!」と強く心を揺さぶられました。
 それがきっかけで骨髄バンクに登録し、2年余りが過ぎた頃「ドナー候補に選ばれたので、骨髄提供のための検査を受ける意思があるか」という、確認の通知が届きました。答えはもちろん「イエス」でしたが、その時は最終候補までは残らず流れてしまいました。非常に残念でしたが、その患者さんが回復されることを、ただ願うばかりでした。
 それから1年余りが過ぎた頃、親友が入院したことを知った私は、検査入院と聞かされていたこともあり、軽い気持ちでお見舞いに出向いたのでした。ところが、ナースステーションで面会を申し出た私は「面会謝絶と、持参した生花を渡せない」ことを知らされたのでした。抑えきれない不安と胸騒ぎがこみ上げてきました。病院を出るとすぐに、友人の携帯電話に電話をかけてみました。留守番電話でした。病院に出向いたことと、いつ会えるかということを吹き込みました。その夜に友人から電話があり、白血病だということを知らされました。「必ずドナーが見つかり、治るから。しっかりと身体を休めてほしい」それだけ言うのが精一杯でした。
 その後、間もなくドナーが見つかったのですが、それは彼の小学生の愛娘でした。彼の家族、そして彼自身の中で「幼い娘から骨髄提供を受けるべきか」という葛藤があったことは言うまでもありません。その後、彼は娘さんから骨髄移植を受け、順調に回復し、半年後、桜の花が咲く頃には職場復帰を果たしたのでした。「本当に良かった」皆が、彼と彼の家族を祝福しました。秋には彼の大好きなゴルフを、復帰記念コンペとしてたくさんの友人を集めて開催しようと相談していました。
 ところが、そんな矢先でした。再び病魔が彼を襲ったのです。わずか10日あまりで帰らぬ人となってしまいました。お互い理解し合い、本気で仕事し、遊び、将来の夢について語り合い、多くの時間をともに過ごしたかけがえのない友でした。私にとっては信じがたく、とても受け入れがたい事件でした。彼は「自分の周りにいる全てに人が、そして地球上の全ての人が心から幸せになってほしい」そんなことを本気で願っている男でした。
 そんな親友の急逝から一年余り、骨髄バンクから再びドナー候補に選ばれたとの通知をいただきました。最終的に昨年7月に骨髄を提供させていただきました。両親と妻は、最初は骨髄提供に否定的でした。骨髄提供全般、とりわけ採取については、担当コーディネーターや医師から大変親切に充分な説明を受け、家族とも時間をかけ話し合いました。最終的には家族や会社の理解のもと、骨髄提供することができました。
 私には4人の子供がいます。上から3人の男の子は中学生と小学生だったので「親友について、家族について、命の大切さについて」たくさんの話をしました。相手の方は20歳代の女性だということでした。妻や子供たちが、手術が終わって麻酔からさめた私に「お父さん大丈夫? 相手の人、早く元気になって子供が産めたらいいね」と言ってくれました。これまであったいろんなことが思い出され、本当に良かったという安堵感とともに、思わず涙があふれてきました。
 私の親友は、不運にも若くしてこの世を去りました。しかし、彼は間違いなく自分や家族、そして世の中のために一生懸命生きようとしていました。そんな彼のようには生きられなくても、その志を少しでも受け継いで、世の中のために何かひとつでも貢献してゆきたいと思います。
 今は、一人でも多くの方が骨髄バンクに登録されますよう、心から念願しております。(富山県在住)

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私の知らない世界 伝われ! 誰かの心に…… 末廣正和(27歳)                                         【第174号 2006年10月1日号】

 その夜に安眠はなかった。暗く静かな病室、音もなく落ちる点滴、絶え間なくこみ上げてくる吐き気の中に……思い出したのはドラマの世界だった。
 生まれてから20年間、この様な体験をするとは夢にも思ってはいなかった。きっと自分だけが特別な考え方をして生きていたわけではなく大半の人がそうなんだろう。知らなければ知らないで通り過ぎること。自らが体験して初めて広がる新たな世界。背中を押された様に強制的に飛び込んだその世界は当初、自分にとってはまさに地獄でしかなかった……。
 1999年11月。ノストラダムスの予言は自分には当たったのかな……。そう思いながら私は病院のベッドの上で不意に自分に訪れた現実に苦笑しました。急性骨髄性白血病を患った私は治療のために専門学校を辞めました。つらい治療の日々に耐えて寛解を迎えた私は、働きながら犬学受験をしました。しかし、入学まであと2ヵ月を前に再発をしてしまいました。幸い、骨髄バンクを通じて移植ができ、結果も良く翌年の春から改めて新たな大学生としてスタートを切ることができたのです。昔より穏やかに感じられた春の日々、遅れた大学生活を楽しみながら、穏やかに生きて行こう。そう思っていました。時折、公募などに闘病のことを書いて送ったりもしていましたが、深く人に病のことを話すことはありませんでした。
 2003年11月。始めて迎える学園祭の日。私は友人の誘いもあって体育館で行われる舞台を観に行きました。そこで見たことに私は体中に電気が走るような感覚に襲われたのです。彼らを知らない。しかし……。鳴り響く心地よい音楽に、一言も発することもなく踊る彼ら。それでも目から耳から心から。私に伝わるそれはもはや理屈ではありませんでした。彼らを知らない。しかしその初めて体験したその世界は私の全てを震わせました。いや、それはこの会場にいる全ての人が受けたのです。鳴り止まない拍手と歓声。余韻はいつまでも私の心を支配していました。それは、ふいに訪れた自分の使命を知る瞬間。「これだ……と」私は決意しました。知らない世界に絶望した私は、知らない世界に癒された。この感動を……伝えたい。
 2004年4月。共通の友人を介し私はストリートダンス部UNIONの一員となりました。体力がなかった私には十分過ぎる程の日々のつらい練習にも、仲間たちの支えもあって続けて行くことができました。そしてその11月。私は学園祭の舞台に立ちました。知らない人たちから受ける拍手と歓声。そして仲間と共感したこの思い。今なら言える。心から……。舞台が終わり私はみんなの前で話しをしました。「力を
貸して下さいと……」隠してきた自分の過去。私が抱えた恥じらいや負い目はもはや存在していませんでした。
 2005年5月21日。私は皆と一緒に舞台にたっています。目の前には私と同じ病を患った人たち。全てが終わった時、名前も知らない人たちが涙を流して拍手と歓声をくれました。知らない世界をありがとう。仲間たちからもそう言われました。
 2006年8月。部活を引退して幾月かした今、私はUNIONが新たなボランティア活動に取り組んでいることを耳にします。ダンスでボランティアを。新たな知らない世界を切り開いてくれてありがとう。仲間たちから受けたその言葉が今も胸に残ります。自分が伝えた思いは確実に受け継がれている。そう感じました。
 世の中には個人が知らない世界はたくさんあります。中々その世界を知ることは難しい。けれど、それを伝えたり受け継いだりすることはできる。人のコミュニケーションは言葉だけではない。伝えたい思いは形を変えても届く。そう、私に流れている赤い心の様に……。自分が経験したこともないのに骨髄を提供するドナーさんは素晴らしいと、私は心より感謝を込めてそう思います。知らないから、自分ではないからでは骨髄バンクは存在しなかったと思います。誰かが知らない世界を、知っている誰かが伝える。レシピエントとなった私は知った世界だからこそ、私は知らないだれかのためにとダンスを踊りました。そんな時、少しだけドナーさんの気持ちを感じた気がします。私が受けた拍手と歓声を全てのドナーさん、そして全ての支える人たちに届けと、この文面をしたためました。そして、この文面を読んで一人でも多くの人が自分の知らない新しい世界を知るきっかけになればと願っています。(神奈川県在住)

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前列中央の帽子をかぶっているのが筆者

白血病人生 いとおかし ~発想の転換~ 末吉正典(48歳)                                        【第173号 2006年月9月1日号】

「慢性骨髄性白血病……これで私は人生が狂いました。そしてなぜか今、体調の安定とともに自ら変化を求める日々を過ごしています。(平成18年8月20日)」

 平成元年、当時勤務していた会社の健康診断から白血病が発覚しました。骨髄バンクはなく、インターネットもまだ普及していません。骨髄移植の国内実績は約1000例。ただし有効という認識で実施されるのは年間約20件だと聞きました。これは血縁間の実施件数でしょうか。「命さえ助かれば」という時代でGVHDの情報知識は限られたもの。タイムリーな情報源はゼロに等しく、患者同士の交流を図るのは困難でした。もちろん精神的な落ち込みは激しく「あと5年の命」を受け入れられず悶々としました。当時0歳と2歳の娘がいたので、その花嫁姿はおろか入学式さえ諦めなければならない……もう自分をコントロールするのに必死だったのです。
 そんな中「たとえ5年間でも無駄に空しく過ごすより、子どもの前では父親として前向きに生き、同じ死ぬならかっこよく」などと気持ちを切り替え始めたのと、姉とのHLA一致が判明したのがほぼ同時でした。骨髄移植は苦しかったけれど「生きるために死ぬ思いをした」というシャレにならない経験で、とにかく「発想の転換」の繰り返しで乗り切ったように思います。移植の成功率6割と聞いた時、4割は「死」というデータに悩むより6割の「生」だけを考えました。闘病は仕事ととらえ、ガラス張りの無菌室は出張先のホテルのワンルーム。つらい時は「(テレビに映る総理大臣でも)こんな経験はしていない。白血病患者としてのキャリアは自分の方が上」と自己満足。メールはないので手紙を書きまくって自分の存在をアピールし、白血球が増えない時は自分の骨髄の中で孤軍奮闘する細胞をイメージしました。不意に次々と起こる体調不良に負けそうになりながら、生きるための修行と言い聞かせました。涙や唾液、粘膜からいろんな内臓を含め、人体がいかによくできているかを身を持って実感し、その神秘性に感動そして感謝。闘病を、山あり谷ありのマラソンに見立て、先を考えずとにかく次の電柱まで次のポイントまでという繰り返しで、いつかはゴールできると信じました。
 その後、平凡なサラリーマン人生を諦めた私は「社会の落伍者」だと強く感じました。たしかに資本主義社会における生産性という点ではそういう部分もあるでしょう。しかし、それは周囲との比較から生まれる発想なので、他人と比較することをやめました。血液型がO型からB型に変わったせいかもしれませんが、自分にできること、自分にしかできないことは何かを考え、マイペースを守ることが今の私のモットーです。この17年間、GVHDのひどい口内炎とカビから口腔ガンを発症、その2年後、第3子ができ、いくつかの資格を取り、介護事業に挑戦、地元小学校の教育に関心を持ち、現在は地域保護者として学校教育にどう携わるかを学んでいます。
 この波乱に満ちた人生を与えてくれたのが「白血病」であることに間違いはなく、さらに今の日本人が忘れ去ろうとしている「感性」、すなわち「自然に対する畏敬の念」や「謙虚さ」「感謝の気持ち」「品格」などを改めて考え直すきっかけにもなりました。これからも、あのつらい治療を乗り切った自信、万物とともに(病とさえともに)生きているという共生感、そして人としての正義と信念があれば、人生を趣深く過ごせるような気がします。「趣深い」……まさに古文の「いとおかし」という表現がぴったりであり、白血病は私の人生における「発想の転換」の原点なのです。(大阪府在住)

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何気ない行動の結果 巻幡和子(43歳)                                【第173号 2006年月9月1日号】

 ひょんなきっかけから大谷貴子さんと知り合い、体験記を書く機会を与えていただきました。私の体験が少しでもバンク登録者の増加に役立っていただければと願いお引き受け致しました。
 高校生のとき、学校に来た献血車で初めて献血をしてから、自分の血液で人の病気が治るなんてすごい!と感激し、それと同時に血液検査もできてしまうとは、なんてラッキーなことだろうと思って、可能な限り献血車をみつけては走って行ってました。
 そんな私なので骨髄移植のことを知るのには時間がかかりませんでした。15年ほど前は今ほど登録できる機関が多くなく、日赤に行って採血をし、説明をうけて登録終了。とても簡単なものでした。それからは移植依頼の手紙を待ち焦がれるようになりました。でも、いつになってもそんな知らせはやってきません。
 ある時、知らせがきました。ドナー候補の一人になったので検査に来て下さいと。うれしかったですね。でも、そのときは一度検査に行っただけであとは何の連絡も来ません。理由はわかりませんが、今回は見送りとのこと。そうしているうちに2番目の子を妊娠し、一時登録はお休みし、また可能な時期になって再開してもらいました。でもなかなか青い封筒は来ません。これはめったにこないものなんだ、せっかく登録したけど、一度も提供しないかもしれない。そう思いながら忘れかけていた頃、来ました!バンクからの大きい一通の青い封筒が! とてもうれしい気持ちでした。1999年のことです。
 そのあとは、数回に及ぶ検査やら、弁護士さんを含めての説明やら、何回か採取予定病院に足を運びました。当時は今より検査が何回もあり、仕事の調整をしたり、時間を工面したりがちょっと大変だったでしょうか?
 しかし、コーディネーターの方は、担当医と私のスケジュール調整に走り、負担が少しでも軽くなるようにがんばってくれました。担当の先生も詳しく説明してくださり、何の不安もありませんでした。ただ、主人は多少同意に戸惑っていましたが、私は言い出したら聞かない性格であることを知っていたので、そんなにやりたいのならいいよ、と認めてくれました。
 入院中も何不自由なく、スタッフの皆さんもとても丁寧に接してくださり、多少腰に痛みはあったものの、4日めには退院しました。翌日からは普段どおり、仕事に臨めました。
 私の骨髄を移植された患者さんは、お子さんのために元気になろうと骨髄移植を決めたそうです。そんな心のこもったお手紙をあとでいただきました。たぶん今も元気でお過ごしのことと思います。いや、そればかりは私には知る由もありませんが、そう願っています。もともと血液型はA型だったそうで、私の骨髄を移植してB型に変わっているはずです。きっと性格も私のように……変わっているかもしれません。
 その後、2回はありえないだろうと思っていた矢先、2002年にまた来ました。青い封筒です! また当たった気分です。担当の先生はきっと日本人に多い型なんだよ、と少し羨ましそうでした。今度の患者さんはかなり急いでいたらしく、なんとか早めにとのことで病院も東京まで出向きましたが、この頃には検査も簡素化され、1回目よりは検査のための負担は軽かったように思います。
 なぜ、骨髄提供に対して喜びが感じられるのか、と考えると、こんなに医療技術が進んだ現在においても、人の体が自然に作り出す骨髄液が白血病という病を治すことができること、それが自分の力であることがうれしいんだと思います。患者さんが元気に生きてくれることで、助けた自分もうれしく感じると思います。そして、ドナーになることができる私の健康に感謝し、健康な体を授けてくれた両親に感謝しています。そして、私の骨髄液をもう一人の患者さんに使ってもらいたいと今も思っています。ぜひ、制度の改革を財団にお願いしたいのです。もう一度メンバーに加えてはもらえないでしょうか?
 しかし、私は誰にでも登録を薦めたいとは思いません。私のまわりにも、登録をしたいと思ってもできない方がたくさんいます。健康上の問題や仕事の都合上とか、家族の反対にあっている、いま一歩が踏み出せないなど。健康上の理由を除けばさまざまな物理的要因は自分の気持ち次第で変えることができるでしょう。ただし、無理をして登録したとしても移植にいたるまでの過程で断念する確率は高いでしょう。本当に患者さんを助けたいと思う方は、是非登録に行ってみて欲しいと思います。 (埼玉県在住)
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ドナーさんの善意とスタッフのご尽力によって 峯直法(56歳)                                       【第172号 2006年月8月1日号】

 昨年秋に、骨髄バンクを介してドナーさんを得てミニ移植を施行、お陰様でその後順調に推移し、無事に移植から半年以上が経過しました。
 自分が骨髄移植を主治医から強く勧められたのは、一度は薬物化学療法で完全寛解となったリンパ腫が再発し、サルベージ療法のために入院加療している時でした。最終的に移植を受けるか否かは、治療の結果などを踏まえて改めて考えることとして、主治医からの助言によって取り敢えず骨髄バンクへの患者登録の手続きを取って貰いました。というのは、自分の場合には妹とは残念ながらHLAが適合せず、バンクを介してドナーさんを得るしか骨髄移植は実現できないことであったからです。
 患者登録してから約2カ月が経過した頃、バンクよりドナー候補者から最終同意が得られたという通知が自宅に郵送され、その直後の外来診察で、約1カ月後にミニ移植による骨髄移植術を施行することや入院日などが決定。最終同意が得られたことで移植が現実のものとなりました。少なくとも、その時にはそのように確信して、疑いませんでした。
 ところが、移植前のトータルメデイカルスクリーニングが、終わりに差し掛かった頃、こともあろうかドナーさんが急にキャンセルとなったとの予想もしていなかった衝撃的な出来事が発生。まさに移植するための入院予定日の僅か10日前の出来事でした。ショック、ショック、大ショックです!
 移植に向けて張り詰めていたものが一瞬のうちに消滅しました。バンクでの再コーデイネート活動により、約1カ月半後に改めてドナーさんが決まるまで、ストレスが溜まり、悶々とした毎日を過ごすこととなりました。キャンセルとなった理由については、ルール上バンクから主治医にも一切説明がなく、判然としませんが、ドナーさんの重大な健康上の事情によることではないことを願うばかりです。と同時に、移植に向けて準備を進めている患者さんには自分と同じような思いは絶対にさせたくはありません。ただ、移植前処置がスタートする前であったことが不幸中の幸いでした。
 その約2カ月後、改めて得られたドナーさんの骨髄を用いたミニ移植による骨髄移植術が施行されました。移植当日の朝、ドナーさんから採取された骨髄液が自分が入院している病院に到着したのは、その日の夕方のこと。一度ドナーさんにキャンセルされた苦い出来事を経験している身としては、遠方で採取された骨髄液が無事に届くことを心から祈っていましたので、到着を聞かされた時には本当に胸を撫で下ろしました。
 血液型が異なることから所要の処理が施され、輸注が始まったのは午後7時少し前、CVカテーテルを通してドナーさんの造血幹細胞が体内に注入され始められた瞬間は、これまで感じたことのない程の感動を覚えると同時に、ドナーさんや多くの皆様からのご支援に対し、感謝の気持ちで胸がいっぱいになりました。感動そして感謝です!輸注は1時間余りで無事に完了しました。
 その後、ご多分に漏れず、移植前処置の副作用や移植に付きものの急性GVHDの症状に悩まされましたが、幸い、血清型でもDNA型でも完全一致のフルマッチ移植であったこともあってか、いずれの症状も命に関わる程重篤とはならず、移植後1カ月弱で退院することができました。
 そして、その後も概ね順調に推移し、移植4カ月後には職場復帰をすることもできましたし、半年を経過する頃には外来診察も3週間に1回のペースとなり、その翌月には免疫抑制剤も無罪放免となりました。ありがたい限りです。
 現在のところ、慢性GVHDとしてシェーングレン症候群の症状(ドライアイ、ドライマウス)に悩まされていますが、お陰様でそれ以外には無し。まだまだ、油断は禁物ですが、このまま順調に推移していくことを心から願っている次第であります。
 今回のミニ移植による骨髄移植の施行に当たっては、骨髄提供して下さったドナーさんや提供に同意して下さったご家族の方の善意と、自分のためにご尽力いただいた骨髄バンクのスタッフの皆様、主治医や看護師、薬剤師、放射線技師、検査技師等多くの医療関係者の皆様方、職場の上司・同僚・友人、悪性リンパ腫患者・家族連絡会「グループ・ネクサス」の多くの仲間、そして家族等たくさんの方々から本当に心暖まるご支援、ご尽力をいただきました。改めて、心から感謝し、御礼申し上げます。
 折角授かった第二の命、皆様方のご恩をしっかりと胸に刻み、これからも油断せず、一歩一歩、着実に、前に向かって進んで行きたいと考えていますので、これからもご支援のほどよろしくお願い申し上げます。
 最後に、自分の場合は血縁者にドナー適合者が得られなかったもののバンクを介して運良く得られ、骨髄移植を施行することができました。逆に言えば骨髄バンク制度やそれにドナー登録された方の中で適合者がいなければ熱望しても骨髄移植療法という治療法は成立しなかったこととなります。
 側聞するに、みんながみんな必ずしも適合者が得られることとはなっていない現状にあるとのこと、そのために現在、バンク等の関係者によってドナー登録者を30万人体制に増加させるべく各種の取り組みが精力的に行われているとのことであります。このような活動を通じてドナー登録者の拡充が一日も早く図られ、骨髄移植療法という療法でしか命を長らえることができない血液疾患と格闘中の患者が一人残らずその希望を成就できる日が早く来ることを祈念して止まない次第であります。自分としても微力ではありますが、そのために何かお手伝いできることがあればこの上も無い喜びと考えます。皆様、手を携えて共に頑張りましょう! (東京都在住)

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移植後100日頃から産毛のような髪が生えてきて、大分長くなりました(写真は移植後9カ月)

子どもが小児がんに罹ったとき、親が感じたこと 福井郁子(32歳)                                      【第170号 2006年6月1日号】

 私の息子(紫耀=写真)は1歳8カ月の時、急性リンパ性白血病に罹り、今年3月に2年間の治療を終了しました。現在4歳で、無事化学療法で寛解し、元気に幼稚園に通っています。発症した当初は、高熱が出ても風邪だとしか思わず、入院する前日まで友だちと遊んでいました。息子は白血病のハイリスク群で再発率は40%と聞き、ショックで夫婦共々泣きました。信じられなかったですし、悪い夢であって欲しいと祈りました。私は看護師だったので、早期発見できなかった罪悪感で一杯でした。
 1年間の入院生活は、大変なものでした。まだ母乳を飲んでいたので、私が夜中も病院に寝泊りしました。入院中は子どもの看病と、時々家に帰っては着替えと入浴、家事をしてから病院に戻るといった生活を送り、正直しんどかったです。それでも病院が近くで、近所のママさん友だちや病院の元同僚が日替わりで私の弁当を届け、洗濯をしてくれたので、物理的にも精神的にもとても助かりました。24時間付き添っていたので、私の精神は擦り減り、息が詰まるほどでした。そんな中、友人と話すことで、子どもから一時解放され、よい気分転換となり、闘病が続けてこられたと思います。
 家族の中で病人が出たとき、特に親は何を犠牲にしても治療に専念しようとします。子どもを病気にしてしまったという罪悪感が強く、自分を犠牲にする傾向があります。私の場合、子どもが病気になった時、大学院生でした。学校を辞めるかどうか迷いましたが、周りからの励ましで、何とか現在も続けています。しかし、学校に行くのには、本当に労力が要りました。家事と子育てをしながらの学生生活に加え、子どもの体調や病気を考えながら保育先を探す毎日は、諦めとストレスの連続でした。
 夜中、よく頭を抱えてうずくまるように寝ていることが多かったです。息子を預ける場所をどこにするか(ベビーシッター、区と保育園の一時預かり、実家、夫に休んでもらう)、子どもの体調は大丈夫か(よく風邪をひきました)、再発や晩期障害の不安、私の学校のこと(授業に出られるのか、研究はできるのか)など、悩みの種は尽きませんでした。
 抗がん剤を毎日飲ませることも大変でした。苦い薬は飲むのを嫌がり、時間がかかりました。薬をきちんと飲ませることが治療の要なので、親にとっては重責でした。
 入院治療が終了後しばらくして、あまりにもストレスが溜まり、うつっぽくなった時もありました。これでは自分が持たないと思い、電話相談で泣きながら1時間以上話したり、患者会や家族会、サマーキャンプなどに参加しました。そこで患者さんと家族同士による交流、医療者やボランティアとの交流など、多くのサポートネットワークを得ました。自分だけが苦しいのではない、こんなに支えてくれる人がいるんだと分かり、何とか頑張ることができました。
 今の自分の状況は、荒波の中で、半分溺れながら、犬かきをしているようなものです。水を飲みながら、それでもなお岸を目指している。もし、もがくのを止めてしまったら、沈んでしまうかもしれない。そんな気持ちを抱えながら、生きているようなものです。今だって、辛いです。スマートには生きていけません。もがいてもがいて、生きていこうと思っています。
 患者、家族の当事者だけが、苦しみを抱えるのではなく、周囲や社会全体が自分のこととして考え、支えあうことができたらすばらしいと思います。お互い少しずつ苦しみを背負うことで、困難を乗り越えられるような気がします。病気は誰のせいでもないし、かえって病気の経験を成長のバネにできればいいと思います。
 私は、同じ学生が小児がんを身近に考えて欲しくて、学生を続けています。他人のことではなく、自分の身近に病気を考えてくれたらいいと思っています。 (東京都在住)

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ボク、元気になったよ

立派に生きてやる! 野沢明男(27歳)                                        【第169号 2006年5月1日号】

 東京の会のみなさん、こんにちは。野沢明男と申します。私は平成10年2月、19歳のとき、急性リンパ性白血病を発病しました。東京農業大学の一年生のときでした。それまではこれといった挫折もなく、何の変哲もない大学生だった私が、突然、テレビの世界に引き込まれたような感覚でした。
 告知のときは、両親だけが先にカンファレンスルームに招かれて説明を受けたんですが、長い時間を経て病室に戻ってきた母の顔には明らかに涙の跡があり、それを隠そうとする母の姿を今でもよく覚えています。翌日、私自身が呼ばれて説明を受けたとき、現在も主治医である水地先生は「治らない病気ではありません。治らない病気を本人に告げたりはしません。こうして本人に告げたのは病気と闘って欲しいからです」と言い、私は覚悟を決めました。
 この病気の場合には骨髄移植が有効ということで、すぐに手を打ち始めました。両親のHLA型、二人の姉の型も調べましたが、いずれも適合せず、皮肉なことに姉同士の方が一致していました。そして、骨髄バンクでドナーを探すこととなり、発病から一年ほど経過したところで提供してくれる方が見つかりました。
 骨髄移植を受けることを前提として治療をしましたが、化学療法によって白血病の影響はなくなり、元気一杯になっていたため、わざわざ危険な道に進む必要があるのか?と悩みました。私はこの状態に甘んじず、ここで一気に決着をつけることにしました。そして、発病から約一年半、骨髄移植を受けました。「第二の人生」という言葉を移植経験者と交わすことがありますが、私は本当の闘いはそこから始まったという気がします。命と引き換えに、負った障害、失ったものもあることは否定できません。体のことを考えて、東京農業大学を中途退学し、日本大学の通信教育部に切り替えましたが、挫折を繰り返すうちに負けん気が失せ、通信教育とは名ばかりで、ほとんどが自宅でゲームにふけってばかりでした。
 そんな私を変えるきっかけとなったのが、骨髄移植から5年を過ぎたことを機に、両親が寄付をしたいということで、母と二人で骨髄バンクを訪ねたことでした。私は一銭も払ったわけでもないんですが、私にとって骨髄バンクとは、ことあるごとに貧乏人から金を巻き上げるお役所というイメージでした。私は、どうしてあれだけ払ったのにまた払うんだろう? という気持ちで骨髄バンクを訪ねました。しかし、そこで知り合った林さんをはじめとした骨髄バンクに関わる人たちの熱い気持ちに触れていくうちに、徐々に悪いイメージが払拭され、自分もやってみたいという気持ちが強くなっていきました。
 難しいことは分かりませんが、私が願うことは二つあります。一つは、私ではなく両親にこそ言う権利がありますが、患者負担金の撤廃をお願いします。骨髄移植は認められた医療行為ですから、特別に負担を課せられるというのはおかしいと思います。二つ目は、私は以前の新会員紹介コーナーの折、最高の治療を受けられたと申しましたが、これは条件付で、現在においての最高の医療ということです。骨髄移植に望みを託して、ついに助からなかった仲間を思うと、今でもこみ上げるものがあります。経験者としては、他の人にはあんなつらい思いをして欲しくないし、ドナーが痛い思いをせず、薬だけで、または他のもっと確実な方法で病気が治り、骨髄バンクが必要なくなるときがきて欲しいです。ということで、登録者数30万人も一つの目安ですが、私の究極の願いは骨髄バンクの解散です。
 今、私は骨髄移植を受けたことを後悔していません。ドナーさんには感謝しています。なぜならば、三度のメシが食えて、風呂に入れて、ぐっすり寝ることができるからです。こうして思いを述べることによって、ドナーさんに自分の存在が伝わって欲しいなんていうことも密かに企んでいます。ドナーさんには、これからの人生を立派に生きていくので見守っていてくださいと伝えたいです。
 骨髄バンクでボランティア活動をして、ドナーさんだけでなく、たくさんの方々が陰で私を支えてきたんだと分かってきました。この命、決して粗末にはしません。みんな、どうもありがとう!(茨城県在住)

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ドナー登録は世の中を平和にする心 高栁安伸(41歳)                                  【第168号 2006年4月1日号】

 登録のきっかけは、①妻が数年前に既に登録していたこと ②バンクニュースを読んで感銘したこと ③市ではボランティアを推奨しているが、上層部主導の清掃作業や除草作業などの団体行動には疑問を感じていた。しかし、公僕としては以前から何か人の役に立ちたいと考えていたこと④駄目押しは、映画『半落ち』で泣いたこと。
 ゴールデンウィーク明けに登録し、約3カ月後、骨髄バンクから「当選通知」が届く。それからまた3カ月弱、骨髄提供にいたる。100日プロジェクトも軽くクリアしている。それには、理由があった。暮れに妻が出産を控えていたので、また、患者さんも早期の移植を希望していたので、コーディネートを急いでもらった。仕事が繁忙期でなかったこともラッキーだった。この出会い(速さ)は奇跡的だ。遠い前世に宿縁があったのかも?
 市では職員提案というものがあり、「骨髄バンクドナー登録の推進」を提案してみた。公務員にはドナー休暇制度があるので、登録や提供のための休暇はとりやすい。住民に呼びかける前に、職員に呼びかけてはどうか。しかし、回答はあっさり不採用。「登録は個人の自主性である」とのこと。回答者は身内や友人に助けて欲しいと頼まれても同じことを言うのだろうか? これにはめげずにPRを続けようと思う。
 市の行政情報放送委員に選ばれたので、FM放送で骨髄バンクドナー登録を呼びかける。骨髄提供の体験談も放送した。今後も自分なりにできる範囲でお役に立ちたいと思う。
 今回、いろいろな人にお世話になって「人と人とのつながり」や「感謝の気持ち」の大切さを再認識できた。また、子どもも無事に生まれ(母子ともに元気!)「生命について考える」いい契機になった。ドナーになることは自分自身のためでもあると考えている。もう一度提供してほしいと頼まれれば、迷わず提供する。自己満足かもしれないが、この経験をして本当によかった。大きな責任を果たせたという精神的な充足感がある。生きていた証しができたと思ったし、自分の存在価値を確認できた。提供以来、仕事上の悩みとか、いろいろなしがらみが、チッポケなものに感じるようになった。私を必要としてくれた患者さんに感謝の気持ちでいっぱいだ。
 人は誰でも死ぬ。早いか遅いかだけ。それぞれの人生を生きればよいと「移植不要論」を唱える人もいる。私も「延命至上主義」には疑問がある。延命だけを目指すことには賛成しかねる。でも、骨髄移植をすれば助かる可能性がある。可能性があるなら助かりたいと思うのは当然だ。必死に生きようとしている人の意思は尊重されるべきで、それは誰もが持つ権利ではないだろうか?そのお手伝いが自分にできるのなら、私はうれしい。
 骨髄提供は、しばしば命のボランティアと言われる。一方、ボランティアを偽善と言う人もいる。しかし「為さぬ善より、為す偽善」である。今回の骨髄提供では、貴重な体験をさせていただいた。結局は自分のためにやったことだと思う。だから、偽善と思われて結構。「偽善も継続すれば善となる」と思いたい。努めて良い行いをしていれば、いずれは巡りめぐって、自分に返ってくるはずだ。ボランティアを実践している方の多くは「人の為ならず」の考えを持っていらっしゃる。「幸せな者が、不幸せな者へ」ではなく、自分自身の生きがいを実感するために行っているんだと思う。人として何ができるか? それほど大げさに考える必要はない。ヨチヨチ歩きの赤ん坊が転びそうなのを傍で見ていれば、誰でも手を差し伸べることだろう。そんな風に自然にボランティアできたら、世の中平和になるであろう。 (群馬県在住)

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新たな生命、息子「祐希」と

本田美奈子さんもさい帯血移植の同志 粟村勝行(41歳)                                       【第167号 2006年3月1日号】

 平成15年11月に急性リンパ性白血病を発症しました。当時は、青森労働局の監督課長として赴任していたころでした。直ぐに、青森県立中央病院に入院し、寛解導入治療を受け、寛解までには、約2カ月かかりました。
 この間、自由(病室に居れないこと)と希望(仕事、結婚、生きる望みが一時的に喪失したこと)などが無くなった虚空の時間でした。その後、寛解になり東京の虎ノ門病院に転院しました。
 移植しなければ時間の問題であった状態でしたが、骨髄バンクには適合者はなく、さい帯血も細胞数の多いものがなく、日々苦悩の連続でした。また、寛解ということもあり、体の調子も良く、治療を止めようかと思ったこともありました。そのことを主治医に相談したら、それも一つの選択だとも言われました。いろいろ悩んだ末、もう一度、仕事に戻りたい、結婚もしたい、その他いろんなことをやりたいと思い、生きるために最後まで治療を続けることにしました。
 平成16年3月には、再発してしまいました。再度、大量の抗ガン剤治療を続けました。しかしながら、あまり効果はありませんでした。でも、前向きに生きることと決めていたので、病院の中でいかに楽しく過ごそうか(夜中に病室を抜け出して広い病院内を徘徊すること、人の居ない屋上で外の空気を吸うこと、無断外出すること、同じ病気の人と積極的に話をして楽しく時間を過ごすことなど)といこうとばかり考えていました。
 そんなことをしていた平成16年6月頃に、主治医が喜んで病室を訪れました。福岡で細胞数の多いさい帯血が見つかったとのことでした。この機会を逃したら、多分、もう助かるチャンスはないだろうと思い、さい帯血移植に賭けてみました。
 無菌室に入る前夜は、両親と焼肉を食べ、その晩は、最後になるかもしれない自室での時を過ごし、家を出る前は、お世話になった家に一礼をしてきました。片道切符の覚悟もできていました。
 7月18日に移植をしましたが、その前処置として12グレイの全身放射線照射、大量の抗ガン剤の投薬で食事もできませんでした。1カ月後に無菌室を出れましたが、一番太っていた頃で80キロ近くあった体重が48キロまでになっていました。容姿は、以前の面影が全くなく、お見舞いに来てくれる人からは別人かと思われていました。その後、入院中に膀胱炎を発症し、10月18日に退院し、平成17年2月から職場復帰(現厚生労働省労働基準局勤務)しました。
 不思議なもので、片道切符のつもりで無菌室に入ったのに、無菌室から出てくるとここまできたのだから、絶対に生き抜いてやると思っていました。しかし、その後の1年くらいは、いつ再発してもおかしくない恐怖に押しつぶされそうになりましたが、その際は、外に出て美味しい空気を吸って、外に遊びに行きました。遊びとは、大好きな海釣りでした。最初は、体力もなく、船に乗っても魚を1,2匹釣ってあとはお休みでしたが、回数を重ねるごとに体力が回復していき、普通の人と遜色のない体力まで戻りました。でも、日焼けが駄目なので主治医からは叱られましたが……。
 未だに、肌身離さず大切に持っているものがあります。それは、青森の病院に入院した翌朝に、誰よりも早く東京から見舞いに来てくれた友人が持ってきた京都の猿丸神社のお守りです。病気には、これが効くとのことでわざわざ京都まで行ってもらってって来てくれたとのことでした。このお守りは、一つの希望でもありました。
 自分が助かったのは、たまたま運が良かったのだと思いますが、生き残っている人の殆どの方が、前向きに生きている人であり、自分の病気を受け入れている人だと思います。そうすることにより、迷うことなく治療に邁進することができるのかもしれません。
 今年になり、映画「男たちのヤマト」を見て号泣してしまいました。この病気を乗り越え生き残るのは、太平洋戦争に行って、生きて戻ってくるのと相通ずるものだなと思ったからです。昨年、本田美奈子さんが同じ白血病で亡くなられましたが、同士だと思っています。生き残った自分は、この命を大切にして同じ病気で苦しんでいる人、惜しくも亡くなられた人の家族の方々の希望となれるよう精一杯頑張って生きていきたいと思っています。
 最後に、一人でも多くの方がドナー登録、また、生まれてくる子供のお母さんがさい帯血を提供していただけると、助かる人が今以上に現れると思いますので、是非とも皆様のお力をお貸しいただければと思っている次第であります。また、誰だかわかりませんが、私にさい帯血を提供してくれた福岡のお母さん、青森県立中央病及び虎ノ門病院の医師、看護師さん、職場で暖かく見守って頂いた方々、週に何度も見舞いに来てくれた友人たち、そして両親に「ありがとうございました」と感謝します。 (東京都在住)

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ヤリイカ釣りで

ありがとう、こんにちは。これから、ヨロシク。 南出渉(31歳)                                         【第167号 2006年3月1日号】

「やっとドナーになれるねん!」
 弟が白血病と診断されたのはもう6年も前のこと。唯一の血を分けた兄である僕が骨髄を提供出来る確率=25%。だけど、HLAは不一致。『残念』というよりも、悔しくて悔しくて仕方なかったことを今でも思い出します。「僕からの提供はない」ということに、ただ頷くだけの弟の顔。なんだろう。今思えばそこまで自分自身を責める必要はないのかもしれませんが、兄としての存在感のなさに、文字通り凹んだのは初めてのことでした。幸い、骨髄バンクに登録されている方の中からドナーさんが見つかり、弟は骨髄移植を行ない、成功、そして今でも元気に暮らしています。
 どこのどなたか分からないけれども、僕が果たすべき役割を代わりにしてくれた方が、この世界の何処かにいる。じゃあ僕には何ができるか。僕が本来果たすべき役割を、やっぱり僕はしなくちゃならない。いや、果たしたい。僕はそんな想いからドナー登録をしました。
 だけど、待てど暮らせど全く連絡も来ない。「お願いしたいのですが」という依頼があれば、すぐにでもOKなのに……。6年が経ち、登録してることも忘れかけた頃、いや、正確には全く忘れた頃、突然の封書が届いたのです。適合する患者さんがおられるとのこと。
 僕の固い意志、家族の同意、もちろん弟の同意。正直言って、コーディネーターさんの説明がひどくまどろっこしく感じるほど、こちらサイドの準備は万端。そのイレコミようは今思うと、逆にコーディネーターさんに失礼だったのかもしれません。『万が一』のことを想定しなくちゃいけませんものね。そして大好きなお酒を断ち、タバコもやめて、より健康的な骨髄を提供できるよう、また事故なんかにも遭わないように、自分なりに考えて生活を送るようになりました。自分の中に『ドナーになるのだ』という意識が芽生えてから、すでに「誰かの人生も背負っているんだなぁ」という自覚が生まれていたからです。こんなこと
をカラダで感じたことはありませんでしたし、これからもあるかわかりません。そして、おそらくこの僕と同様のことを、弟に対するドナーさんも思ってはったのかもしれんな、と思うんですね。そう思えたこと、そう、一度きりの人生の中でこんな経験をさせてもらえたこと、これは『ラッキー』なことではないかと、僕は思うのです。
 ですが、当日は拍子抜けするくらいあっけないものでしたね(笑)。人生、初の入院ということもあって、かなりドキドキして病院に向かったのです。弟が入院し移植を受けた、その同じ病院、同じ病棟に。今では元気に働いている職場に休みを出した弟に連れて行ってもらいました。(←複雑ですね)当然、同じ科ですから弟は顔が広い。当時お世話になった看護師さんが今では婦長さんになっておられたり……。「あぁ、珍しいお名前だから。やっぱりお兄さんやったんやね!」
 血液検査も終え、採取当日を迎え、麻酔をかけますよ、というところまでですね、記憶にあるのは。名前を呼ばれて起こされたら、終わっていました。腰に鈍い痛みが残っていたのと、尿道カテーテルが気になるくらいです。尿道カテーテルについては『非常に気になる』レベルでしたけどね!
 あとはいたって順調。むしろ骨髄を提供したという実感もないくらい。でもどこかで僕の骨髄液を待っていた人がいるんです。その方のことは何も知らない。だけど、そんなことはどうだっていいことかもしれません。ただ僕の骨髄液と仲良くしてやって頂きたい。うまく折り合いつけて。弟が骨髄移植を受けて助かり、今も元気でいること、いや、もっと直接的な表現をするならば『弟を何処かの誰かに生かしてもらえたこと』で僕や家族が救われたように、その方のご家族の方にも幸せを感じて欲しい。
 ちっぽけな僕の命でも、決してちっぽけでない誰かの命とご家族の方を救えるのなら、自分を褒めてやってもいいのかな?今後の人生を生きていく上で、逆に僕もいい経験をさせてもらえました。「ありがとう、こんにちは。これから、ヨロシク。」(兵庫県在住)

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未来に向かって 梅田寿雄(45歳)                                     【第164号 2005年12月1日号】

「私に生きるチャンスを与えて!」平成5年3月テレビ番組の医療特集のなかで、急性骨髄性白血病などの病気で骨髄移植でしか治らないことを訴える患者さんたち、それを見ながら涙を流し、健康な自分ができることを今やろう、健康だった方が突然病魔に襲われ、骨髄移植をしたからといって100%完治するものではないことを自覚し、けれども何もしなければ死を待つだけ、「生きるチャンスを与えて欲しい……」切実な訴えを目の当たりにし、翌日骨髄移植推進財団に電話をし、骨髄ドナーバンクに登録致しました。
 当時は社会的に認知度も薄いことから手間暇がかかり、会社の休暇制度もなく、登録するのにも検査を受けるのにも時間がかかった記憶があります。登録した年に1次検査、2次検査と水戸で実施しましたが、それ以降音沙汰がなく、敦賀に転勤となってから患者さんと一致するとのことで3次検査を受け、正式に移植することとなりました。同意書など数々の書類に少々うんざりもし、好きなテニス(運動をすると数値が上昇する項目があるとのことでドクターから運動禁止令発令)とお酒(数々の失敗をしているので自粛)を1カ月以上控えてモヤモヤしましたが、こんなことで断念しては「必死になって病魔と闘いながら健全な骨髄液を待っている患者さん」や「骨髄移植の仲介役を一所懸命に対応されているコーディネーター」の方に申し訳ないと思い、踏ん張りました。
 そうこうしている間に入院、採取量はcc単位のオーダーかと思いきや1リットルでしたが、4カ所の注射針の跡(今ではすっかり無くなりました)があるものの痛みもなく、他に異常もなく採取後二日目の午後に退院しました(担当医は呆れていましたが)。あっと言う間に終了って感じで、退院当日に退院祝いを兼ねて、控えていたお酒を飲みましたが、一口目で頭がクラクラしたことを覚えています(大分お酒を断っていたため体が敏感になった模様)。でも、その後は気分晴々、気持ち良くお酒を飲みました。
 暫くして(本当に忘れた頃に)、財団から(財団が記載内容を確認済み)手紙が届きました。なんと患者さん親子から2通の御礼の手紙でした。親御さんの丁寧な手紙には、私への感謝と多幸を祈ることばがちりばめられていました。
 患者さんからは、私というドナーにめぐり逢うことで、人生の新たな一歩を踏み出そうとしている喜びが、そして、どんなに辛いことにも耐え、いろいろなことに挑戦して、自分の人生を大切にしたいという決意が、感謝の言葉とともに綴られていました。
 それを拝見し、患者さんを含めご家族一同喜んで戴いたことを認識し、自分のできることをやった達成感を味わいつつ、患者さんの明るい未来を祈りつつ心をこめて返事を書きました。骨髄移植により多くの理解者が増えるとともに、患者さんが一日でも早く元気に過ごせるように願っています。現在、二度目のバンク登録をしつつ、移植された患者さん(自分の分身でもあるんですよね……性格の良いところだけは似て欲しいなぁ)は、今では幸せな日々を過ごしておられるのかなぁ~と案じております。
 急性骨髄性白血病(女優の夏目雅子さんや本田美奈子さんも)で亡くなる患者さんが一人でも助かるよう、骨髄移植が正しく理解され、一人でも登録者が増えることを思ってやみません。
 骨髄提供という貴重な経験をしてからは、多数の移植待ちの患者さんがいらっしゃることを常に考えながら行動をしています。今、健康な自分ができることは何でも精一杯頑張ろう! 未来に向かって! (福井県在住)

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