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骨髄移植を受けて
古波倉 正人
20歳当時の僕は、プロダンサーになりたいという夢があり、新聞配達をしながら東京でダンスの専門学校に通っていた。2001年3月、東京ディズニーランドのパレードダンサーのオーディションを受けた。審査員の厳しい視線の中、今の実力を全て出し切った。結果は、見事合格することができた。
そして4月、晴れて、東京ディズニーランドでのパレードダンサーの仕事が始まった。踊って園内を一周する。その間に、大勢のお客さんが、こちらに向かって手を振ってくれる。本当に幸せな時間がたった。
5月のある日、腰に激痛が走った。整骨院へ行き、腰をマッサージしてもらったが、一向に痛みが引かない。数日経って、やっと腰の痛みは引いたが、今度は40度近い高熱に侵され、近くの診療所へ行った。軽い検査が終わり、後は診察を受け、薬をもらって帰るはずが、医師から「紹介状を書くから順天堂大学付属病院へ行きなさい」と言われた。理由がまったく分からなかったが、とりあえずその病院へ行った。内科の待合室は意外と空いていて、早く帰れそうだった。「早く帰りたい」ということしか頭になかった。
それから診察室へ呼ばれ、椅子に座ったとたん、
「急性リンパ性白血病です。」
「化学療法で寛解に持って行き、その後、骨髄移植をしましょう。」
その後も説明は続く。
「白血病?」「嘘だろう。何かの間違いだろう。」「今まで病気一つしたことがない自分が、白血病になる訳がない」「しかも骨髄移植?」
頭が真っ白になった。
そのうち、悔しくて涙が込み上げてきた。今まで頑張ってきたことが、一瞬で吹っ飛んだ。結局、ディズニーランドは、2ヶ月で辞めることになった。
その日から即入院することになり、これから始める化学療法についての説明があった。だが、自分が白血病になった現実がどうしても信じられない。
「誤診じゃないのか。」「他の病院で診てもらったら、白血病なんかじゃなかったってことがあるんじゃないか。」
次第にそんな思いが沸き、主治医にわがままを承知で転院させて欲しいとお願いした。先生には渋々了承してもらい、埼玉県立がんセンターへ転院することが決まった。
そして、自分は白血病なんかじゃなかったという結果を信じて、埼玉県立がんセンターへ向かった。
検査をした後、先生がやって来た。
「急性リンパ性白血病です。」「骨髄移植が必要です。」
診断結果は何一つ変わらず、もうこの現実を受け止めるしかなかった。
その後、先生から、以前この病院にディズニーランドで踊っていた20歳の女の子が入院していたとの話しがあり、
「その子は今、どうしていますか。」
と聞いてみた。もし、元気になっていたら、少しは勇気が湧きそうな気がした。
「死にましたよ。」
あっさり言われた。言葉も出なかった。改めて、自分はとんでもない病気になってしまったんだと痛感した。
それから、長期間の入院、家族の負担などを考え、先生と話し合った結果、地元、沖縄へ帰ることになった。
久しぶりに沖縄へ帰れる事に心がホッとした。だが、こんな形では帰りたくなかった。那覇空港へ着いた。複雑な心境だった。さっそく、転院先のハートライフ病院へ行き、そのまま入院した。
抗がん剤投与の準備として、首筋あたりの静脈に点滴用の針が入れられた。
「もうやるしかない。」
気持ちは固まった。
治療と並行して、骨髄移植に向けてのドナー探しを始めたが、身内、親戚からは、骨髄の型が適合する人は見つからず、骨髄バンクからドナーを探すことになった。
だが、僕の中では、大きな副作用に悩まされることもなく、化学療法が順調に進んだせいで、
「移植なんて、そんな大変なことしなくてもいいんじゃないか。」
という気持ちがあり、あまり乗り気ではなかった。
先生からは、移植しないで完治する可能性は30%ぐらい、ということは再発する可能性が70%あるということで、第一寛解期の今移殖した方が良く、再発した後の第二寛解期の移植とでは、5年、10年生存する確率が20%から30%の差が出るとのことだった。
気持ちはずっと揺れ動いたままで、先生から説明があると、移殖した方がいいんだと納得するが、一人になって考えると、移植した後のGVHDという副作用の恐ろしさで、移植しないで治る確率30%の可能性に賭けてみたくなる。
結局、月日だけが過ぎて行き、2002年1月、半年間の化学療法も終わり、退院することになった。
だが、これで治療が終わりではなく、これからは維持療法という治療が始まり、この病気との付き合いはまだまだ続く。気持ちが本当に嫌になってしまうが、通院しての治療なので、今までよりは楽だった。
それからは、気が緩んでいたのだろう。アルバイトもしたし、たまには友達とお酒を飲むこともあった。すっかり自分が病人だという意識は薄れていた。
維持療法を始めて、1年が経過した。もうその頃には、適合するドナーが見つからないこともあり、このまま化学療法だけで完治するんじゃないかという気持ちが高まっていた。
それから2ヶ月経った。2003年4月、頭に強烈な痛みが走った。しかも今まで経験したことがないほど、半端じゃない痛みだ。嫌な予感がした。緊急で病院へ行き、検査をした後、先生がやってきた。再発していないことを祈った。
「再発です。脳に転移しています。」
先が真っ暗になった。「嘘だろ、嘘だろ」と自分に何回も問い掛けた。夢であってくれと何度も願った。時間を元に戻せるのなら、何でもしたいぐらいだった。
しかし、目の前で起きていることは、紛れもない現実だった。自分は取り返しのつかないことをしてしまったのだと心から痛感した。
すぐに寛解へ持っていくための化学療法が始まった。再発したということは、今までの抗がん剤では効かなかったということになり、さらに強力な抗がん剤が投与された。副作用は最初の入院の時より、比べものにならないほど凄く、40度の高熱、強烈な頭痛、血小板減少による鼻血・眼底出血、これら全てが毎日続いた。さらに、足腰が弱り、もう歩けなくなっていた。体がボロボロで、今にも壊れそうだった。
化学療法が始まって2週間経ったある日、急に寒気が襲い、体が震え始めた。震えを必死に抑えようとするが、体が言うことを聞いてくれず、そのまま意識がなくなった。
気が付くと、鼻から管を入れられ、心電計が取り付けられていた。ベッドの横には心電図があった。「まさか」と思った。
周りには、先生や看護師さんが5、6人いて、さらに母親も私が危篤との連絡を受けて駆け付けていた。
「自分はこのまま死んでしまうのか。」
次第に意識が遠のいていき、まぶたが閉じそうになる。
「死にたくない。生きていたい。」
心の中で必死に叫んだ。
その後、危機は脱出し、何とか一命は取り留めた。原因は敗血症だった。
治療から一ヶ月が経過し、検査結果は第二寛解期に到達。次は移植に向けての準備が始まった。骨髄バンクからのドナーを待つ時間がなく、白血球の型が一部不一致の姉をドナーとすることが決まり、姉が住んでいる富山県中央病院で移植することになった。
退院の日、先生から、
「相当な覚悟を持って頑張ってください。」と言われた。
「覚悟」という言葉が何を意味しているかは、はっきりと分かった。
「絶対、生きて帰ってくるぞ。」そう誓って沖縄を飛び立った。
姉は小さい子供が3人いるが、4日間入院が必要な私への提供を快く承諾してくれた。最初は太ももの付け根の静脈から末梢血幹細胞を採取した。だが、必要量の細胞が採取できず、もう一回、今度は腰から骨髄液を採取することになった。
相当きつかったと思うが、愚痴や泣き言は一切言わず、
「弟のためなら、なんでも協力するよ。」と言ってくれた。
僕は姉がいて本当に良かったと心から思った。
移植する日が7月19日に決まり、その2週間前から骨髄を空っぽにするするための前処置が始まった。抗がん剤、放射線などで徹底的に骨髄を叩き、後は移植を待つだけとなった。
7月19日、期待と不安が入り混じる中、骨髄移植が始まった。空っぽになった僕の骨髄にこれから、姉の骨髄液が入る。いよいよ運命の瞬間がやってきた。
最初に姉の腰から採取した骨髄液が投与された。しばらくすると血尿がでた。そのことを先生に言うと、先生は動揺しているように見えた。そのうち、めったに顔を見せない血液内科部長まで駆け付けた。明らかに問題が発生しているようであった。
「移植は失敗したのか。」最悪のシナリオが頭を過ぎった。
「絶対に成功してくれ。」懸命に何度も何度も祈った。
その後、姉の太ももの静脈から採取した末梢血幹細胞も移植された。
今度はうまくいき、移植は成功したように見えた。これで、生きる望が繋がった。
その瞬間、今まで自分を支えてくれた、母親、ドナーとなってくれた姉、その他、親戚や周りの方々に心から感謝した。
その後、姉の骨髄液は生着し、重いGVHDを患うこともなく移植から4ヶ月で退院することができ、現在に至っている。
今振り返ると、この4年間、本当にいろいろな事があった。失ったものもたくさんある。でも、それ以上に得たものの方が、僕には、とても多かった。
「自分」ということ、「家族」ということ、「死ぬ」ということ、そして「生きる」ということなど深く考えさせられた。
今では、とても貴重な体験をさせてもらったと思っている。
これから、あと何年生きられるかは分からない。でも、今を、この時を、大切にして、決して、悔いの残らない人生を歩んで生きたいと思う。
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