わたしの移植体験記


                          

中村 和美

 私が体の異常に気づいたのは、主人の転勤で千葉県に住んでいた2000年の春でした。疲れやすく、発熱を何度も繰り返していましたが最初「年のせいだろう」程度に思っていました。近医を受診したところ貧血を指摘され「再生不良性貧血の疑い」ということで、経過観察していました。
 病名を確定するため県立中部病院に紹介受診すると、即入院を言い渡され、翌日の骨髄検査の結果、骨髄異型性症候群から移行した急性骨髄性白血病のM6型であること、M6型は予後不良で骨髄移植が必要であること等の説明を受け、かなりショックでした。
 すぐに抗がん剤治療を開始することになりましたが、主治医に「治療してみないと白血球が立ち上がってくるか、やってみないとわからない」と言われ、「もし、白血球が立ち上がらなければ、The End」だと、一番動揺し、一番悩んだ時でした。しかし、私は、「自分を信じ、先生を信じ、何が何でもピカピカの一年生の娘の姿を見るために」、病気や辛い治療に立ち向かう決心をしました。
 無事治療を終え退院でき、目標だった娘の小学校入学式に参加できて、とても幸せでした。当たり前の生活が、当たり前に過ごせることが一番の幸せだと感じました。
 しかし、家族にはHLAの合致する者がなく、日本骨髄バンクからもドナーは一人も見つかりません。私のHLA型は日本人には少なくアジア人に多い特殊な型と言われました。でも不思議なもので、中国・韓国・台湾までドナー検索を広げても見つかりませんでしたが、アメリカ骨髄バンクからは4人のドナーが見つかりました。
 ただ、ドナーが見つかった事は嬉しいのですが、海外骨髄バンクからの移植は、ドナーの手術や入院費用が日本の保険が効かない為、支払う金額が約5倍になり、その費用も払い戻し制度がある高額医療費として日本では認められていません。今度はお金の問題で迷いました。治療のお陰で体はすごく良好でしたので、このまま移植なしで治るのではないかと思いたくもありました。でも、主治医は「調子がよい時にこそ、リスクの高い移植を受けた方が良い」と私に移植を勧めました。国内のドナーを待っている間に再発すれば、その望みも絶たれると・・・。しかし、移植の成功率は決して100%ではありません、高いお金をかけて、命が助かればいいけれど、もし、骨髄が私に生着しなかったら、そのお金の意味がなくなります。
 「絶対治る!お金は心配するな、借金してでもお金は準備するから、病気が治れば安いお金だよ。」との主人の一言で、成功率が半分でも、半分の成功率の中に入る事だけを心に念じ、アメリカ骨髄バンクにコーディネートを頼みました。DNA検査の結果、ベストマッチのドナーさんが決まりました。
 移植は2001年早春に決定し、弟の住んでいる名古屋にある海外骨髄バンク移植認定施設に入院しました。検査の進む中、ドナーさんから最終同意書がなかなか届かずヤキモキしましたが、OKがでて移植前の前処置が始まりました。新しい骨髄液を入れるために、私の骨髄を空にするための強い治療です。前処置にあわせて、主人が介護休暇をとって、病院に駆けつけてくれましたが、今思い出しても主人が側にいてくれなかったら、あんな辛い治療に耐え切れたかどうか自信ありません。お守りの子供達の写真を見ても、負けそうなくらい辛かったのですから。
 順調に前処置が進む中、大きな問題が発生しました。9.11ニューヨーク同時テロの影響で飛行機の便数が減り、飛行機便の都合で、移植の日が一日遅れになることでした。通常、ドナーから採取した骨髄液は24時間以内に患者に移植されますが、骨髄液が届くかどうか不安で、主治医に届かなかった場合の対策について何度もたずねた事を今でも覚えています。私にとって命にかかわる大問題です。恐怖のあまり、悪い事ばかり考えてしまいます。
 「悪い事ばかり考えるな、きっと届くから大丈夫だよ。いい方に考えろ。」と、主人の一言で、私は開き直る事が出来ました。主人の言葉どおり、骨髄液は無事到着し、カテーテルを通して私に移植されましたが、骨髄採取から移植まで約55時間と言うとんでもない記録となりました。
 放射線の副作用、ドナーさんの白血球による拒絶反応と、症状は患者さんそれぞれまちまちでこれからが本番です。私が一番辛かったのは、口内炎の痛みです。そのせいで、顔が腫れ、粘膜がただれてネバネバしたタンのようなつばと一緒に血がでて、私のタオルは血だらけでした。
 もう一つ辛かったのは高い熱ではなく、薬を飲む事です。薬を飲まないと命にかかわりますが、吐き気のため水を一口飲んだだけで、もどす状態です。やっと、薬を飲み終わっても、すぐもどしてしまい、また、薬の飲みなおしです。薬を吐かないように、色々体勢を工夫しました。白血球が増えてくると、体も少しずつ楽になってきました。
 春休みに、両親や兄弟、子供達が病院に来てくれました。白血球が少ないので、子供達と会うのはドア越しが原則ですが、主治医の配慮で少しだけ外に出て、子供たちとふれ合うことが出来ました。とても、嬉しかった。涙だけが流れ落ち、言葉にならなかったことを思い出します。
 この日を境に、夏休みには沖縄に帰ると目標を決め、自分のできる事は、自分でするように心がけて日々のリハビリに励みました。その甲斐あって6月中旬に無事退院し、迎えにきてくれた主人や子供たちと一緒に沖縄に戻ることができました。まだ、少し規制のある生活ではありますが、体力も徐々に回復し、大きな副作用もなく、現在に至っています。
 病気になった事は決して嬉しいことではありませんが、笑うことの大切さ、プラス思考の大切さ、当たり前の生活のありがたさ、何よりも家族の愛の強さを感じ、私自身、少しは成長したような気がします。
 そして、遠くにいて顔も名前も知らないながら一番近いHLAで私とつながっているドナーさん、今の私は、ドナーさんの愛と勇気のお陰で新しい命を授かり、生きる意味、自分がやるべきことを教えてもらいました。