沖縄タイムス 朝刊 2008年10月30日に掲載された記事からの転載です。

慢性骨髄性白血病D  糸数 美智子

完治 念願のピアノ再開
                           
ドナーの方に聴かせたい

 退院後しばらくは、免疫不全の状態で何度も風邪をひき、あるときはこじらせて副鼻腔炎になりました。骨髄移植で大量の抗生剤を服用していたので、副鼻腔炎の治療に抗生剤が使えず、治るのに時間がかかりました。
 入院中も退院後も、マニュアル通りに回復してきた私ですが、トンネルに迷い込んだ気分は家に帰ってからも引きずっていました。今振り返ってみると、再発への不安が気分をめいらせていたと思います。
 「マルク」と呼ばれる骨髄検査をした際には、次の外来日に結果を聞くまで、いつもハラハラドキドキでした。"再発"という文字が頭の中にこびりついてしまい、気持ちが前向きになれない時期もありました。
 無菌室にいるころ、退院しで元気になった元患者さんの姿を見ることが一番の励みでした。他の元患者さんに会ってみたいと思い、県内でバンクを介して移植をした患者さんは何人いるのかと主治医に聞きました。
 「県内では糸数さんが二人目ですよ」と知らされ、こんなに少ないんだと驚き、また自分の運の強さに感嘆しました。
 ドナーさんへの恩返しと、いろいろな情報を知りたくて、1996年の夏から「県骨髄バンクを支援する会」の定例会に参加しています。少しずつ体力も回復してきたので、骨髄バンクのチラシ配りのボランティアや、講演会では闘病体験の発表もしました。
 移植から二年を越えたころ、精密検査で再発の可能性はないということが分かり、とてもホッとし、トンネルの出口にたどり着き抜け出すことができました。
 もし発病当時に骨髄バンクがなかったら、ドナーが見つからなかったら、私はどうなっていただろうか。バンクの存在と医学の進歩には、木当に感謝しています。
 今年8月、私の骨髄は13歳の誕生日を迎え、とっくに白血病は完治したとみられています。念願だった息子の入学式は幼稚園、小学校、中学校と見ることができ、そして今春、高校の入学式も一緒に参加しました。ドナーの方の思いやりある決断のおかげで、私は健康を取り戻し、私だけでなく主人や息子、両親、兄弟為友人、私の周りも幸福にしてくれました。
 無菌室にいた35日間、つらく苦しい日々だったけど、普通の生活、平凡な毎日がどんなに大切で、すてきなものか気付かされました。その当時は、人間関係で悩んだことさえ宝石のようにキラキラ輝いているように見え、生きているから悩みもあると思いました。
 現在、慢性骨髄性白血病は。「グリベック」という新薬が開発され、2001年から日本でも使用されていて、14年前の私の発病当時より状況はよくなっています。骨髄移植以外にもさい帯血移植など、ほかにもいろいろな治療法があり、患者さんにとって選択肢は広がったようです。
 また県内では琉大病院が骨髄バンクの認定病院に認定されたことも朗報です。
今私は、中断したままだったピアノのレッスンを再開し、近所の子どもたちに教えています。最初は何も弾けなかった子どもたちが年々成長し、ステージで弾く姿を見るとき、音楽を続けてきてよかったと思います。
 私は来年、50歳の誕生日を迎えます。私を支えてくださった方たちに感謝のミニ・コンサートが実現できる日が来たらいいなあと思います。いつの日か、ドナーの方にお会いすることができたら、ぜひ私のピアノを聴いてもらいたいです。

教え子たちの発表会の後、自宅のピアノでくつろいだ笑顔の筆者
2006年 4月 八重瀬町


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