造血細胞移植を受けて

上原 由布子

 平成12年、私は建築関係の会社で事務職をして6年目、上司から任せられる仕事も多くなり毎日一生懸命頑張っていました。また、プライベートでは仲間たちと学生時代から続けているバスケットボールを楽しんだりして毎日を過ごしていました。
 2000年沖縄サミットも迫った暑い6月、「社内健康診断」でヘモグロビン値が8.0と低く「再検査」になりました。今まで病気ひとつしたことがなかった私は「貧血だなんて・・・そんなはずがない!」と診断結果を軽く受け止めてしまいそのままにしてしまいました。
  しかし、いつものバスケ練習にもかかわらず、急激に体力が落ちていき、ついにはコートを一往復することさえできなくなりました。さすがに「これはおかしい・・・」と自分の体に異変が起きている事を感じました。
 会社の健康診断から一ヶ月後の7月、この日も体はだるく、またのぼせるような感じがする頭痛を我慢しながら中頭病院へ向かいました。血液検査を終え、薬をもらって早く家へ帰ろうと考えていました。でも診察室へ案内され医師から告げられたのは「貧血が進行していて詳しい検査が必要です。紹介状を書きますので、すぐハートライフ病院へ行ってください」という言葉でした。一体、自分の体に何が起こっているのだろうと理由が分からないままハートライフ病院へ向かい、そこでもまた血液検査をしました。待っている間、漠然とした不安だけが私の心を支配していました。とにかく、検査結果がなんでもありませんようにと、何回も何回も心の中で祈り続けました。
 やがて看護師さんに案内され診察室へ入ると、「急性骨髄性白血病」という全く想像もしてなかった最悪な結果でした。冷静に淡々と話す医師を前に私は、「まさか自分が・・・なぜ自分なの?なぜ なんで・・・」という信じたくない気持ちでいっぱいでした。医師の説明の「抗ガン剤治療で・・・」という "抗ガン剤"という言葉に、不安と怖さが頂点になり、涙が溢れただ泣くことしかできませんでした。
 その日付き添っていた私の母は、その時動揺した様子を全くみせず、私の不安を少しでも和らげようと黙ってずっと背中をさすってくれました。今思えば母も泣きたかったと思います。でも母は気持ちを切り替え、前向きに治療に立ち向かえるように私を励まし続けてくれました。この日、平成12年7月22日から私と家族の白血病との闘いが始まりました。
 入院して再度担当医師から説明が行われました。私の急性骨髄性白血病のタイプは、M2(骨髄芽球性)というもので抗ガン剤による化学療法で予後が良いタイプでした。医師から治る可能性はあると聞いた瞬間パッとひとすじの光が見えた気がしました。次の日から沢山の検査が行われました。その中でも骨髄検査やIVH処置は大の男の人でも泣くと聞いていたので、私は完全にビビッってしまいました。でも、担当の看護師さんは私の不安を察し声をかけてくれたり、手をギュッと握ってくれたりしました。その優しさと手の温もりで不安が半分になり安心できたのを今でもよく覚えています。
いよいよ抗ガン剤による治療が始まりました。それに伴う副作用は言葉ではとても言い表せないほど辛く苦しいものでした。それでもどうにか耐え、4ヶ月後の12月第一寛解期に到達することができました。翌年の平成13年1月に、維持・強化療法をするため再入院しました。だが、その1回目の治療の途中、真菌性肝膿瘍を発症し40℃前後の高熱が出てしまい、治療を一時中断せざるを得ない状況になりました。高熱は2ヵ月半続き、その間は寝たきりの状態でした。ようやく熱が下がったときは、自力でベッドから起き上がることもできず、全く歩けなくなっていました。リハビリを受けて、何ヶ月ぶりかで廊下に歩いて出た時は本当に嬉しかったものです。
 その後、肝臓の数値も安定し寛解も維持していたため一時退院し、しばらく外来で様子を見ることにしました。合併症の様子も見ながらでしたが、M2タイプということもあって「もう抗ガン剤治療はしなくても大丈夫じゃない?」なんて思っていました。なぜなら、遺伝子レベルの血液検査でも悪い細胞は発見されなかったからです。医師も、今後の治療の方向性をどう行えば良いのか一生懸命考えてくれました。そんな頃、今までの病院生活の鬱憤を晴らすかのように私は友達と遊び、大好きなバスケもしていました。
 退院して3ヶ月が経った頃、今後の治療方針が決まりました。それは、中断していた維持・強化療法の再開でした。すでに、治療中断から半年以上が経過し、寛解も続いていましたし、合併症のある肝臓の状態も良好でしたが、このままでは再発の恐れがあるからという判断でした。治療再開することで私はすっかり憂鬱になっていましたが、再々入院は2ヵ月後だったのでそれまでは思う存分楽しもうと考え直しました。
 数日後いつもの外来日、その日は骨髄検査をしました。「良い結果が出ますように・・・。」と、心の中で祈り病院を後にしました。夕方、家に着くとすぐ姉から「病院まで連絡下さいって電話あったよ」と言われ、イヤな予感が頭をよぎりました。病院へ電話すると、「骨髄検査の結果が思わしくないので明日入院の準備をして来て下さい」という事でした。再発でした。まさかの再発という現実に、好き勝手に遊んだことを後悔しました。そして、家族に対して本当に申し訳ない気持ちになりました。
 医師からの説明では、再発したことで骨髄移植も今後の治療選択のひとつに加えられるということで、自分がかなり厳しい状況にあるということを知り愕然としました。抗ガン剤も以前よりはるかに強いものを使用するので合併症のある肝臓への負担が一番心配されました。今回の治療のリスクを聞かされた時、ふと「死ぬかもしれない」と思いました。でも私は、不安な気持ちを抑え全力で頑張ってやろうと自分自身へ誓いました。
 入院して1回目の治療が始まり不安で頭がいっぱいでしたが、意外にも副作用は軽くスムーズに終わりました。けれども治療の成果をみるため骨髄検査をすると、ガン細胞は80%も残っていました。薬が効いてない事を知って私は動揺しました。2回目からは前回よりもはるかに強い抗ガン剤が使われ、その凄さは副作用に現れました。高熱・吐き気・だるさや血痰そして口内炎・・・ありとあらゆる痛みが体中を襲ってきました。治療の途中、白血球が減少し抵抗力が弱まってきたためクリーンルームへ移動になりました。そして2回目の治療では、ガン細胞を16%までたたくことができました。続く3回目の治療でも同様の副作用が表われ、その頃は一日一日がこんなにも長く苦しくつらいものかと心底思っていました。3回目終了時点でも10%のガン細胞がまだ残っている状態でした。4回目には、これまでとは違う薬を使うことになりました。副作用はまた新たに皮膚・心臓にも現われ、私の体はもう限界―――ボロボロでした。
 それから数週間が経ち、ようやく寛解期に到達することができました。間もなく医師から移植の話が出ました。私の場合、合併症や心臓への負担を考慮した結果、もう化学療法に耐えうるだけの体力が残っていなかったためミニ移植を勧められました。ミニ移植とは、骨髄の中に悪い細胞を残したまま移植を受け、移植生着した造血幹細に悪い細胞をやっつけさせる方法です。ミニ移植は、主に高齢で体力がない人のために行われます。つまり、抗ガン剤での前処置や放射線で骨髄を完全に空っぽにすることができない場合に行われるのです。成功率を医師に聞くと、五分五分ということでした。しかし寛解期に入った今しか移植のチャンスはなかったので私にはもうこの選択しか残っていませんでした。
 早速、家族の白血球型を調べました。検査結果を待っている間、どうか適合していますようにと家族みんなで祈っていました。もし不適合だったら、骨髄バンクへ登録しドナーがみつかるまでずっと待ち続けなければいけません。そうなれば、ドナーを待っている間に再々発したらどうしよう。体力が残っていない今の私は生きられるの?・・・不安や死への恐怖・・・いろんなマイナス感情が溢れ、検査結果を待っていた数日はとても長く感じました。一番一致する確率が高いといわれた姉と不適合と知ったとき、期待が大きかっただけにとてもショックでした。しかし、奇跡が起きました!!母親から移植が受けられると連絡が入りました。その瞬間、「やった!生きられる!!」・・・私は喜びと安堵感で涙が溢れ、そばにいた母と抱き合い喜んだことを今でも鮮明に覚えています。
 平成14年6月、琉大病院へ転院し移植の準備が始まりました。ドナーとなる母も、白血球の数を増やすため1週間ほど入院し、予定通り母の末梢血幹細胞採取が行われました。採取は母も不安はあったと思いますが「由布子のためなら何でもするよ」と言ってくれ、優しく力強い言葉で私に勇気を与えてくれました。母の採取から約1ヵ月後に移植の日がやってきました。移植は点滴のように行います。母からもらった造血幹細胞が点滴ラインを通して一滴一滴ゆっくりと私の体に入ると、それはとても暖かく深い愛情を感じました。大好きな母から二度も命をもらい、本当に感謝しています・・・お母さん本当にありがとう。
 無事移植が終わり予想されていたGVHD(移植片対宿主病)の苦しさにもどうにか耐えることができ、母の造血幹細胞は順調に生着していきました。それから四ヵ月後、無事に退院することができ現在に至っています。でももしあの時、母と不適合だったら―――と考える時があります。もし家族に適合者がいなければ、私はどれだけの時間ドナーを待ち続けることになっていたでしょうか。どんな気持ちで毎日生き、希望を失わずにいられたでしょうか。こうしている今現在も、あの頃の私のようにドナーを待ちわびている患者さんが大勢います。どうかお願い致します―――白血病で苦しんでいるみんなが希望を失わずにいられるように、みんながドナーを待っている時間が今よりも短くなりますように・・・。
 最後に、これまでの入院生活を振り返ってみると、苦しいことがほとんどでしたけれど、些細な幸せや当たり前にできることへの感動・感謝の気持ち・・・私にとって良いことも悪いこともすべて貴重な体験でした。なかでも、人の優しさは何よりも心を打たれ、私の生きる支えになりました。ある看護師さんに「体は病気でも心まで病人にはならないでね」と励まされたことがあります。私を「気持ちまでガン細胞に喰われないぞ!」って強気にさせてくれた言葉でした。