九州骨髄バンクだよりNo.65、1996年9月1日に掲載された記事からの転載です。

私の骨髄移植の体験記-無菌室での思い出-(移植1年を経過して)1996年8月

                                       糸数美智子


   私の無菌室入室は、平成7年の8月上旬でした。1ヶ月前から地元沖縄県を離れ福岡県のH病院に入院していた私に、その日は付き添う家族は誰もおりませんでした。主人は沖縄で勤務(ただし、前処置が始まった頃から主人が10日間の休みをとり、無菌室の面会者通路で寝泊まりして付き添ってくれた)、3才の息子は保育園、両親も仕事があり、家族との面会は週末のみでした。隣室の人院患者Oさんが、その日退院にもかかわらず私の無菌室入室時間まで家族の代わに付き添って下さり、「がんばってね」と励まして下さいました。Oさんには、今でもとても感謝しています。

 無菌室でのつらいことのひとつに前処置があります。4日間のブスルファンの服用のあと、エンドキサンという抗ガン剤が大量に点滴で投与され、その時に今だかつて経験したことのない頭痛におそわれ、あまりのつらさに大泣きしました。ガラス窓越しに見ていた主人の「美智子がんばれ」の言葉にどれだけ励まされたことか。つらい前処置の後、移植当日の夕方、他県の病院から予定通りにドナーの骨髄液が運ばれてきた時は本当に安心しました。

  もうひとつ無菌室でつらかったことは、絶えずつきまとう吐き気、嘔吐、咽頭の痛みでした。のどの痛みのため唾液さえも飲み込めない状況で、毎日大量の薬を飲まなければならず、とても苦しいことでした。そんな中でも食べることが回復につながると信じていた私は、毎日痛い思いをしながら少量のおかゆを流し込み
ました。しかし30分後には全部吐いてしまい(吐く時ものどを通るので痛い)、何度もがっかりしました。ある時など、沖縄から付添いにきた叔母手作りのソーメンチャンプルーを無菌室に人れ、おいしく食べたのにそれも全部吐いてしまい、「もったいないなア」と思ったものです。食事制限への反動なのか、無菌室でのいちばんの楽しみは料理番組を見ることでした。ワイドショー等の料理コーナーも熱心に見てメモをとったり、おいしいお店の特集も欠かさず見ておりました。最近やっと「なま物食禁止」が解除されたのですが、世間を騒がせているO-157が恐くて、刺身はもちろん生野菜にもまだ手をつけていません。でも、早くアイスクリームが食べたいなー・・・。


 無菌室開放の日、ナース達の「おめでとう!」と「シャバだ、シャバだぞ」の声に迎えられ、車椅子でゆっくり退室しました。この時ばかりは本当に嬉しくて涙があふれしばらく止まりませんでした。35日間の無菌室での生活は本当に長く、久しぶりに見る外の風景(といっても病院の廊下)は映画の1シーンを見ているようでした。

  今移植から1年を迎え、昨年の今ごろは無菌室の中だったと思うと感無量です。2年前の発病からこれまで私を支え、はげましてくれた主人、息子、両親、兄弟、友人たち、その他応援して下さった大勢の皆様に「お陰様で私の骨髄は1才の誕生日を迎えることができました。」という言葉を添えて感謝します。そして骨髄を提供して下さった名も知らぬドナーの方、バンクのボランティアの方々、本当にどうもありがとうございました。ひとりでも多くの患者さんに骨髄移植というチャンスが訪れることを願って、私も骨髄バンクのボランティア活動を始めました