沖縄タイムス 朝刊 2008年10月2日に掲載された記事からの転載です。

慢性骨髄性白血病@  糸数 美智子

脾臓腫れ白血球数上昇
                           
自分と家族のため 移植決意

 1994年3月、5年間の東京での生活を終え、主人、私、息子の3人で沖縄に引っ越してきました。
 久しぶりの沖縄はとても暑くて、もう夏バテかなと思うくらい身体がだるく疲れやすい日々が続きました。5月末、何げなく触ったおなかの左側が腫れていることに気付き、総合病院に行きました。
 検査の結果、碑臓が腫れ、白血球の数値が2万以上あることが分かり、すぐ琉大医学部付属病院を紹介され、6月中旬から入院することになりました。
 1週間後、主治医に「糸数さんの白血球の数値が15万あります。注射で数値を減らすための治療を始めます」と告げられたとき、先生は、はっきり白血病とはおっしゃらなかったのですが、私はやはり白血病だったのかと分かり、暗たんたる気持ちになりました。
 「あと半年は生きられるだろうか」「息子の航平はまだ2歳になったばかりで、今死んでしまったら私の顔を忘れてしまう」といろいろなことを考え、頭の中が混乱して、しばらく涙が止まりませんでした。
 夜中、何度か病院のベッドで目が覚め「何で私ここにいるんだろう」「あっそうだ、自血病で入院しているんだった」「病気が夢の中の出来事だったらいいのに」と思ったものです。
 数日たつと落ち着き、医学はこんなに進歩しているから、きっと薬で良くなるはずと気を取り直し、治療に頑張ろうという気持ちになりました。
 7月に入り、インターフェロンの治療が始まり、注射の打ち方を覚えて7月中旬に退院。自分で毎日、副作用の高熱に苦しみながら、注射を打ちました。
 しかし白血球の数値はなかなか良くならず、8月下旬に再入院。インターフェロンの量を減らし、ハイドレアという飲み薬での治療が始まりました。この薬が効いて、白血球の数値も徐々に下がり、脾臓の腫れも引き、9月末には退院することができました。
 そのころ、私の病名は「慢性骨髄性白血病」と主人から知らされました。血液の数値も正常で、見た目も全く普通の人と変わらないのですが、今は慢性期でいつ急性転化(白血球が急に増殖して体内で悪さをし、薬が効かなくなる)が起こるか分からないので、状態のいい時期に骨髄移植を受けた方がいい、と勧められました。
 退院して薬で良くなると思っていた私にとって、骨髄移植を勧められたことはとてもショックでした。急性転化を起こすと余命半年、今の医学では、完治するには骨髄移植しか方法はないと分かり、両親と弟のHLAの型を調べてもらいましたが合いませんでした。
 10月下旬、主人、主治医の先生と相談し、骨髄バンクに患者登録しました。登録前に先生から「骨髄移植も100%の治療ではなく、合併症で亡くなったり、再発する人もいて最終的な成功率は50〜60%」と聞かされました。
 骨髄移植をしなければ、私に残された命はもしかしたら3、4年かもしれない。でも移植をしても100%回復するわけではなく、60%の成功率だという。どうしようかと悩みました。
 息子も2歳でまだまだ母親を必要とする年齢だし、成人するまではやはり生きたい。幼稚園、小学校の入学式をぜひ見てみたい。息子に伝えたいこと、一緒に体験したいことがいっぱいある。そして私自身も、まだまだやりたいことがたくさんある。自分のため、主人のため、息子のため、両親のためにも、なんとしてでも生きたい。もしドナーが見つかるチャンスがあったら、骨髄移植を受けてみようと決心しました。
 11月下旬、主治医から「骨髄バンクでHLAの適合するドナーが見つかりました」と連絡が来ました。


沖縄に戻るため、息子の航平君と飛行機を待つ筆者 1994年 羽田空港

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