沖縄タイムス 朝刊 2008年10月9日に掲載された記事からの転載です。

慢性骨髄性白血病A  糸数 美智子

移植前に大量の抗がん剤
                           
周囲の励まし 副作用緩和

 私と白血球の型「HLA」が合うドナーがいたと分かっただけで気持ちも落ち着き、明るくなってきました。これで移植に向け確実に一歩前進し、とてもうれしくホッとしました。
 1995年の亥年が明け、私も年女、骨髄移植という大変なことが待っているけどきっと大丈夫という気持ちでした。
 できれば県内で骨髄移植をと希望したのですが、他人からの移植は肉親間に比べてリスクが高く、骨髄バンクから指定された認定病院でしか行えないとのこと。当時は沖縄に認定病院がなく、福岡県の原三信病院に決まりました。
 私の骨髄移植は8月中旬と決まり、原三信病院からは40日前から入院してほしいと連絡があり、7月に入り福岡県に出発しました。
 入院前、息子には「飛行機で福岡に行き、そこの病院にお母さんは入院するから、航平はお父さんと一緒にバイバイして帰ってね」と説明し、ちゃんと帰って行きました。
 翌週末、面会に来た息子は私が元気にしているので「お母さん、病気治った?航平と一緒に帰れる?」と聞いてきました。「お母さんの病気を治すにはたくさんの時間かかるから、まだまだ入院しなくちゃダメなんだよ。でもきっとサンタさんがくるころには、家に帰れるからね」と約束しました。
 原三信病院の先生方、看護師さんたちはみんな親切で優しく、移植を終えた他の患者さんとも接し、安心して無菌室入室までの日を過ごしました。
 8月、無菌室入室の数日前、先生に呼ばれ「無菌室の中では、出された薬は必ず全部服用するように。移植を成功させるには、糸数さんがきちんと服薬を守ることですよ」と言われ、どんなことがあっても必ずやりとげようと思いました。
 鎖骨の下の血管にヒックマンチューブを挿入したり、生ものを口にしてはいけない生禁食も始まり、いよいよという雰囲気になってきました。髪の毛をそりに理髪店に行き、バリカンが入ったときは思わず目を閉じてしまい、しばらく開けられませんでした。
 移植の十日前、無菌室に入りました。私の入院した当時は現在と違い、外部から菌やウイルスが入らないように無菌室への入室は厳しく制限され、ドクターとナースが週2回、それぞれ2時間くらいずつの入室でした。
 付き添いの家族も、ガラス越しに取り付けられている電話を通して会話しました。検温、検脈、畜尿、 食器の洗浄や消毒など、何でも一人でこなさなければならず、抗がん剤の投与が始まり体がきつくなったときは、やはり大変でした。
 移植の一週間前から、前処置(抗がん剤の大量投与)が始まり、私はひどい湿疹とかゆみに悩まされ、三日くらい眠れない日が続きました。
 頭がもうろうとし、以前からあった耳鳴りがひどくなり、幻聴にも悩まされました。特に無菌フィルターからの音が高速になったときに耳鳴りの音の波長が合うのか、いろいろな音楽(映画音楽、ピアノ曲、三線など)が鳴り響き、ガラス越しに主人に「この部屋に有線放送が入っているみたいよ」と口走ったものです。
 主人は前処置が始まったころから十日間の休みを取り、無菌室の面会者通路で寝泊まりしながら付き添っていました。
 またある日には、抗がん剤の副作用でひどい頭痛に見舞われ、何度も大泣きしました。自分で頭をさすったり、マッサージしました。ガラス越しに見ていた主人の「美智子ガンバレー!」と、看護師さんの「痛いってことは、抗がん剤が効いているという証拠ですよ」との言葉に、どれだけ励まされたことか。

移植前日、無菌室で「がんばるぞ」とピースサインする筆者 1995年8月 福岡県

闘病記 慢性骨髄性白血病Bへ

闘病記の目次に戻る