沖縄タイムス 朝刊 2008年10月16日に掲載された記事からの転載です。

慢性骨髄性白血病B  糸数 美智子

名も知らぬドナーに感謝
                           
移植後25日 無菌室開放

 移植当日、他県でドナーの骨髄採取が行われ、原三信病院の先生とともに骨髄液は)飛行機で福岡に運ばれました。日赤で処理され、夕方、予定通り病院に到着。私の胸の中に、一滴、一摘、入ってきました。
 台風が来て、飛行機が飛ばなかったらどうしようと心配もしましたが、無事に移植の日はすぎました。
 私のために痛い思いをして骨髄を提供してくださった名も知らぬドナーの方には、本当に頭の下がる思いがしました。
 これまで付き添っていた主人も、移植の二日後には沖縄に帰り、その後は義妹、伯母、母、いとこが交代で付き添いに来でくれました。
 移植後、免疫抑制剤も加わり、下痢や吐き気、のどの痛みがひどくなり、つばさえも飲み込めず、ビニール袋に吐き出していました。しかし薬の服用を怠るわけにはいかず、痛み止めと吐き気止めの薬を入れてもらい、薬を飲むようにしました。たしか十種類以上の薬を飲んでいたと思います。
 薬は服用後、一時間以内に吐いたら飲み直しなので、服用後はひたすら寝ていました。下痢や吐き気のひどい日は、薬を飲む時間がずれてしまい、タ食後が夜中になり、寝る前の薬が明け方4時ごろになったこともありました。何度も看護師さんに励まされ、何とか日程を終えることができました。
 そんな中でも食べることが回復につながると信じていた私は、毎日痛い思いをしながら少量のおかゆを流し込みました。しかし三十分後には全部吐いてしまい何度もがっかりしました。吐くときものどを通るので痛いのです。
 食事制限への反動なのか、無菌室での一番の楽しみは料理番組を見ることでした。ワイドショーなどの料理コーナーも熱心に見てメモを取ったり、おいしいお店の特集も欠かさず見ていました。
 うれしかったことは、友人やきようだいからの手紙やはがきでした。特に、最近の航平の様子を写真と文章で知らせてくれ、けなげに頑張っていることに涙を流しました。
 気分のいい日はお気に入りのCDをかけ、いろんな音楽を聴いていました。以前、この欄で中島みゆきの「時代」のことが書かれていました。私も「時代」の中の「たとえ今夜は倒れても、きっと信じてドアを出る」を歌うたびに、自分もきっと無菌室を出る日が来ると信じ、それをイメージするようにしました。
 私はきようだいからではなく他人からの移植なので、先生方は移植の前から「移植片対宿主病(GVHD)」と呼ばれる拒絶反応が強くでるのではないかと心配していました。
 移植から数日後、手のひらと足の裏が真っ赤になり、スリッパを履くのも痛いほどでした。数日後、そこの皮がめくれ、それが急性GVHDでした。私のGVHDは軽くすみました。
 移植から25日後、無菌室解放になり、部屋を出ました。35日ぶりに見る外の風景(と言っても病院の廊下)が新鮮に映りました。
 それから三日後、主人と息子が会いに来てくれました。40日ぶりに会う航平は、私がマスク姿で点滴スタンドをガラガラさせて降りてきたので、びっくりしたようでした。
 主人と息子が帰った後、私はホームシックとうつ状態になり、少しのことでメソメソ泣くようになりました。無菌室でのストレスがいっペんに出てきたようです。無菌室では、こなさなければならない日課があって必死でしたが、一般病棟に戻ってからは日課から解放され、安心したと同時にやることが何もなく、退屈になってしまいました。

無菌室から出て3日後。息子の航平と40日ぶりの対面 1995年9月 福岡県

闘病記 慢性骨髄性白血病Cへ

闘病記の目次へ戻る