沖縄タイムス 朝刊 2008年10月16日に掲載された記事からの転載です。

慢性骨髄性白血病C  糸数 美智子

家族と外泊 笑顔が戻る
                           
退院、息子との約束果たす

 1995年8月の移植からしばらく、朝起きても何もする気力がなく、顔も洗いに行けません。頭はツルツル、むくみやシミがひどく、まゆ毛やまつげも抜けて、鏡に映る自分の顔を見ることがすごく嫌でした。
 タ方になると少し気分が良くなり、今日も一日がやっと終わった、移植50日目か、まだ60日目か、退院がメドの120日にはまだまだだなあと、毎日ため息をついていました。
 週末は沖縄から主人や母が来て、時々大分に在学中のいとこも来てくれるのですが、ほかの日はほとんど面会者がおらず、憂うつな毎日でした。
 いつも暗い顔をしていたので、看護師長さんが「糸数さん、順調に進んでいますよ。何も心配することありませんよ」と慰めてくれるのですが、気持ちは晴れません。
 食事も生ものが禁止の生禁食、外出も禁止で、同室の患者さんとのおしゃべりも、毎日顔をつきあわせているので話題もなくなりました。来る日も来る日も同じ部屋のべッドにいて、一生ここから出られないのだろうか、との思いにとらわれ、出口のないトンネルに迷い込んだような気分でした。
 無菌室でひどかった、のどの痛みは、白血球の数値が上昇してからはよくなったのですが、吐き気はまだ続いていました。味覚も変な状態で、病院食も飽きてしまい、食欲もすっかりなくなってしまいました。食事の差し入れをする家族のいる地元の患者さんが、うらやましかったものです。
 十月中旬、点滴で入れていた免疫抑制剤を錠剤で飲み始めました。拒絶反応の移植片対宿主病(GVHD)を抑えるための大事な薬です。十一月中旬、胸に埋め込まれていたヒックマンチューブが取り外され、身軽になりすっとしました。
 数日後、移植後初めて外泊許可をもらい、親子三人で病院の隣のホテルに泊まりました。四カ月ぶりに息子と一緒に枕を並べ、私はあまりのうれしさになかなか眠れず、ずっと航平の寝顔を見つめていました。
 翌朝、笑顔で病室に戻った私に「どんな高価な薬よりも効きますね」と看護師さんが声を掛けてきました。長く続いたうつ状態は、そのころからよくなったように思います。
 それから退院日が決まり、十二月初旬に移植後百七日目で退院しました。先生方からは「退院イコール完治ではなく、これからも免疫抑制剤の服用を怠らず、気を抜かずに頑張ってください。心配なのは再発ですが、二年間何事もなければ大丈夫でしよう」と言われました。
 息子と約束通り、クリスマス前に家に帰れました。那覇空港に着いて、大きな声で「お母さんが帰ってきたよー」とはしゃいでいる姿を見て、私も寂しかったけれど航平も小さな体で寂しさに耐えていたんだなあと思い、つくづく退院できた喜びをかみしめました。
 家族で囲む食卓は何でもおいしく、家の布団では久しぶりに熟睡できました。主入と息子のために少しずつ家事ができることが、一番うれしかったです。
 ドナーの方には感謝の手紙を書き、骨髄移植推進財団を通じて届けられたようです。数週間後、財団を通して返事が届き、ドナーの方も家族みんなで私の退院を知り、喜んだと書いてありました。
 退院後は、琉大病院に定期的に通院し、血液検査をしながら免疫抑制剤を一年間服用しました。生禁食が解除され、一年ぶりにアイスクリームを食べたときはとてもおいしかったです。

 退院から2年が過ぎ、ほっとしているところ。夫婦で出かける前に
夫の聡さんと笑顔の筆者 1998年1月 八重瀬町


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