琉球新報朝刊2000年12月6日に掲載された記事からの転載です。

         「命の贈り物」骨髄液提供 体験記<1> 松本 哲治
                           
   
「可能性」応援したい (4年前にドナー登録 3時間で手術終える)

  「大きく息を吸い込んでください」
  遠くなる医師の声を最後に深い眠りに落ちた。
  「聞こえますか?無事終了しましたよ」
  次に聞こえたのも、やはり医師の声だった。

  麻酔から覚めたぼんやりとした頭で考えていたのは、「もう終わったのか、あっと言う間だったな」ということだった。麻酔で意識を失ってから、手術を終えて病室で目が覚めるまでに約3時間。初めての昏睡体験は、ちょっとしたお昼寝という感じであった。まだ頭がボーとしているのでよく周りの状況がつかめなかったが、寝返りを打とうとして腰に痛みを感じた。
  ベッドに横になり病室の窓から眺めた東京の空は、思ったより澄んだやさしいブルーだった。さわやかな初夏の訪れをぼんやりと連想していた。
  私がドナー(骨髄液の提供者)登録をしたのは、かれこれ今から約4年前、平成8年の夏にさかのぼる。当時、私は骨髄移植やそのドナー登録に特に興味があったわけではなかった。
  その頃、私が持っている骨髄移植に関する知識といえば、重い病気で困っている人がいること、その病気は骨髄移植によって治る可能性があること、ドナーは骨髄液を提供してもしばらくすればまた元の生活にもどることができることくらいだった。
  ただ何となく街で見つけたポスターを読んで、軽い気持ちでドナー登録を決めた。不謹慎な話だが「待ち合わせのついでに」程度の軽い気持ちだったのだが、ドナーとして登録するには骨髄提供に関するさまざまな説明を受けなくてはならなかった。「骨髄移植に関して十分に理解してからご提供を」というのが骨髄バンクの方針らしかった。
  私たちの体中に流れているあの赤い血は、実は腰や胸の骨の内部で作られている、ということをその時に知った。骨髄と呼ばれるその部分は、ゼリー状の骨髄液で満たされ、常に新しい健康な血液を身体に供給しているらしい。ところが、そこで健康な血が作れないとなれば当然病気になってしまう。
  それが白血病や再生不良性貧血、先天性免疫不全症などのいわゆる血液難病と呼ばれる病気なのである。そこで、血液のもとになる骨髄液をその患者さんに移植するという治療法が考え出された。ドナーから採取された骨髄液が移植を受けた患者さんの身体の中で健康な血液を作り始めることで、患者は再び健康を取り戻す、というわけである。そもそも血液を作り出す素(もと)みたいな骨髄液を入れ替えるのだから、患者は移植手術の前と後では血液型さえ変わってしまう。ところが、そう話は簡単に行かない。他人の骨髄液を移植するためには、白血球の型(HLAという)が患者とドナーとで一致しなければならない。しかも、このHLAが一致するのは兄弟間でも4分の1の確率、非血縁者と呼ばれる他人同士だと数百〜数万分の1の確率なのである。兄弟以外にこのHLAの適合者を探し出すのは、絶望的な数字なのである。いや、だったのである。
  ドナーと患者とが同じ白血球のHLA型の持ち主でなければ、骨髄移植は成立しない。ところが、非血縁者間で、つまり、赤の他人同志でHLA型が一致する確率は、数万分の1。
  この気の遠くなるような低い確率の中から、いっちょ移植の相手を探し出してやろうじゃないか、と真っ正面から取り組んでいる組織がある。それが骨髄バンクなのである。骨髄バンク事業の仕組みはこうである。骨髄提供についてご理解頂いた方のHLAをコンピュータに登録しておき、骨髄移植を希望する患者さんが現れたら、そのデータベースから探し出すのである。
  つまり、一人でも多くの方を登録しておくことが、希望する全ての患者さんと一致する相手を見つける可能性を高くするのである。ドナーとして登録すること自体は約10ccの血を採られるだけなのでさほど難しい話ではないが、ドナーになるには条件があって、年齢が20歳から50歳までの健康な方で骨髄提供について十分理解し家族の同意を得ている方となっている。
  ドナー登録が済むと、あとはただひたすら自分の型と一致する相手が出てくるのを待つだけである。また、同じ趣旨で骨髄のドナー登録や移植を行っているのは日本だけではない。
  そこで、国内の骨髄バンクで適合するドナーが見つからない患者さんを救うために、世界中の骨髄バンクと相互に協力し合って、データの交換や骨髄液の提供が行われている。


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