琉球新報朝刊2000年12月7日に掲載された記事からの転載です。

         「命の贈り物」骨髄液提供 体験記<2> 松本 哲治
                           
   
採取は4月に決定 (親類から「危険」と反対が・・・・・)

  ドナー登録して以降、私はHLAが一致する相手が見つかり骨髄の提供ができる日を心待ちにしていた。骨髄移植財団からの郵便物が配達されてくるたびに、ワクワクしながら開封したのをよく覚えている。そして、そのたびに相手が見つかった事を告げる通知書ではなく、ニュースレターなどの定期郵便物であったことにちょっぴり落胆するのだった。
  そんな事をくり返しながら、いつしか私は自分が骨髄バンクへのドナー登録者であることさえ忘れかけていた昨年の11月、一本の電話が骨髄移植推進財団から直接我が家にかかってきた。何気なくドナー登録したあの日からまる4年が経過していた。電話は骨髄移植コーディネーターと呼ばれる女性の方からであった。彼女は、私のHLAがある患者さんと一致しておりドナー候補者の一人になっていること、私と相手のHLAが遺伝子レベルでより一致しているかどうかを調べるためにDNAタイピングと呼ばれる更に精密な適合検査が必要であること、私の骨髄を必要としている相手が外国の方なので今後の検査や手術は東京か大阪か福岡になるだろうということを分かりやすく説明した。
  その後で、今後の骨髄提供へ向けたプロセスに進む意志があるかどうかを訊ねた。
  こういうものは不思議なもので、待っても待っても音沙汰のなかった骨髄提供の話が、やっと来たと思ったら今度は私のすごく忙しい時期と一緒にやってくるのである。
  そもそも移植の相手が現れることを待ち望んでいたのだから、最終的な骨髄提供の意志を確認するどころか、どんどん話を進めましょうという気分であった私なのだが、2次検査から実際の骨髄摘出手術が行われる予定の半年間は、私にとって多忙を極める時期と重なった。
  まず、2次検査の始まりが12月、次女の出産がその翌年1月の末、それから決算期の3月に、介護保険制度の施行が4月。鳴り物入りで始まる介護保険制度のスタートは、私のように高齢者の介護関係の仕事をしている者にとって、寝る間も無い程の超忙しい時期だった。片づけておかなければならない仕事が山積みの中を、東京へ何度も上京し、病院スタッフとの面談や検査、健康診断を昨年の暮れから、春にかけて行った。
  結局、骨髄液採取は4月と決定された。まさに介護保険制度が施行されるその月であった。しかし、相手はいつ何時体調が急変するか分からない。相手にとっては命がかかった話なのだ。しかし同時に、職場の仲間たちが倒れそうになりながら介護保険制度への準備をすすめているこの時期に、休みを取って迷惑をかけることも、やはり憚られた。せめて4月の後半にしてもらうことだけをコーディネーターの方にお願いした。
  ところが、実際に最終適合検査によって一致が確認され、あとは同意を経て骨髄提供という段階まで来ると、予想もしていなかった事態となった。親戚から反対の意見が出始めたのである。
  骨髄移植推進財団の方からはじめて連絡を受けたのが昨年の11月だったため、私の骨髄移植話は、お正月の家族や親戚が集った際の話題のひとつになっていた。その中で多くの親族たちは私の骨髄提供に関して断固反対であった。その理由は何と言っても、骨髄を提供するのは危険だと思われているためである。
  事実、骨髄を提供するためにはドナーは全身麻酔が必要である。過去に骨髄採取にともないイタリアで1件、日本でも1件のドナーの死亡事例が報告されている(骨髄バンクを介した事例では死亡事例はない)。これは提供を目的とした骨髄採取のためというよりも、全身麻酔をかけた場合数万分の一の確率で発生する可能性がある死と言えなくもない。しかし、万が一の確率だとしても過去に骨髄採取にともない死亡した人が存在していることは事実であるし、骨髄液を提供しなければ骨髄採取のために命を落とす可能性は0%なのも事実である。
  私の身を案じてくれている真剣さに感謝したし、重苦しい親戚会議の空気から彼らの心配が痛いほどリアリティを持って伝わってきた。特に「もう一人じゃないんだぞ。家庭も子供たちのことも考えろ」という忠告は、これまで無茶もかなりやってきただけに身に染みた。それからの約1ヵ月、私はずっと逡巡を繰り返した。
  

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